カウナスと十字架の丘 |
||||||||||
カウナス リトアニアの第二の都市カウナスは、その歴史が10世紀頃まで遡ることができる古い町で、13世紀にはドイツ騎士団から町を守るために城壁が造られたといわれ、15世紀の半ばにはハンザ同盟の都市となり、16世紀にはリトアニア大公国の中で大きく発展しましたが、17世紀から18世紀にかけてロシア、スウェーデンそしてナポレオン軍からの攻撃を受けたり、ペストの流行もあって一時荒廃しました。 1919年に首都であったヴィリニュスがロシアに占領されたこととで、一時的にここカウナスが臨時の首都となり、リトアニア最大の都市として、工業的にも発展しています。 第二次世界大戦時には、ドイツ軍の侵攻に伴い、隣国のポーランドから迫害を避けるため多くのユダヤ人が流入、当時この地におかれていた日本領事館に領事代理として赴任していた杉原千畝が、 本国からの指示に反して多くのユダヤ人に査証を発行し、欧州からの脱出を支援していたことはあまりにも有名です。 |
||||||||||
杉原記念館 カウナスの中心部から少し離れた住宅街の中にあるこの建物は、日本領事館が置かれていたところで、今回のツアーで私が最も訪れたかった場所です。 この領事館は、領事代理として1939年(昭和14年)の8月28日に赴任し、現在では「東洋のシンドラー」と呼ばれる杉原千畝が、赴任直後に発生した第二次世界大戦により、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害から逃れるため、多くのユダヤ難民に対して、本国外務省の命令に反して「人道上、どうしても拒否できない」と、ロシア、日本を経由して第三国への逃避をとるためのビザ(通過査証)を本国の命に反して発行し続けたところです。 1940年7月18日の早朝から、本省からドイツのベルリンへの移動命令によりカウナスを離れる8月31日までの間に、番号が付されて杉原千畝により発行されたビザは、2100枚を超えるとのことであり、子供を入れてこのビザにより難を逃れたユダヤ人は6000人を超えるとのことですが、当時ドイツとの間で友好関係を持っていたことから、最終的にはヨーロッパ内各地の大公使館を転々とさせられ、日本に帰国後には、ガリ版刷りにより氏名と日付だけを手書きで書きこむだけとなっている『退職通告書』が送付されて、この件を理由にしてほぼ強制的に退官させられました。 当時のことを杉原千畝は、「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」と述懐していたとのことですが、外務省は、外交官名簿からも削除してその存在すら否定しており、戦後も一貫して杉原千畝のとった行動は否定されており、2000年(平成12年)になるまでその名誉は回復されませんでした。 記念館は日本人の大学生を含む多くのボランティアによって運営されています。 |
||||||||||
門柱には「希望の門」、「命のヴィザ」と日本語で刻まれています。中庭から撮った建物の外観はきれいですが、これは日本からボランティアで訪れた職人さんの手によって塗り直されたものです。 |
||||||||||
当時の様子を再現した執務室には、ビザの複製や使用されていた付けペン、タイプライターなどが置かれており、椅子に座って写真を撮ることもできます。 |
||||||||||
アレクソト橋 ネマン川(ネムナス川)に架かるこの橋は、長さが約250m、当時木製の橋が架けられていたのを、1930年に鋼製のアーチ橋として架け替えられ、「ヴィタウタス大公橋」と名付けられました。 第二次世界大戦中に軍事的理由により爆破されて1948年に再建されたものですが、旧市街とアレクソト地区を結ぶ橋であることからアレクソト橋と呼ばれています。 当時は、橋をはさんでロシア領、ポーランド領となっており、暦が異なっていたことから13日の差があり、『橋を渡ったら13日かかった』などといわれ世界一長い橋とも揶揄されていたようです。 |
||||||||||
|
||||||||||
ペルクーナスの家 ヴィータウタス大公教会の傍にある、赤煉瓦造りでゴシック様式の建物は、15世紀に、ハンザ同盟の商人によって建てられたもので、リトアニアでは最初のゴシック様式の建物でした。 言い伝えでは、雷神ペルクーナスの神殿があったとされていますが、現在は図書館として使用されています。 雷神ペルクーナスは、ペルクナスともいい、スラヴ神話の雷神で、ギリシャ神話のゼウスに相当するとのこと。 |
||||||||||
カウナス旧市庁舎 市民広場にあるバロック様式の旧市庁舎は、18世紀に建てられたもので、帝政ロシア時代には政治犯の牢獄としても用いられ、その後は、皇帝の別宅にもなっていました。 現在は、陶器博物館と市の結婚登記所となっています。 訪れたこの日は高等学校の卒業式であったようで、多くの学生とその家族、そしてマーチングバンドが出ていて、そのうち行進がはじまり大賑わいとなっていました。 そういえば日本では入学式と卒業式がありますが、ヨーロッパの国々は入学式は行っておらず卒業式だけ。入学することよりも厳しい授業を終えて卒業できる喜びで、行進する学生たちはすれ違う人たちと笑顔でハイタッチ!していきます。 |
||||||||||
|
||||||||||
|
||||||||||
カウナス城 ドイツ騎士団の侵攻に対抗するため、ネリス川とネマン川が合流するところに、13世紀に建てられた要塞ですが、ドイツ騎士団の度重なる攻撃により破壊され、15世紀のはじめにヴィータウタス大公によりに再建されましたが、防衛拠点としての役割を終え、17世紀から18世紀にかけて戦争により、再び城の大部分が破壊されました。当初の城には4ヶ所に塔が設けられ台形の城壁で構築されていましたが、現在は、塔と城壁の一部が残されるのみとなっています |
||||||||||
|
||||||||||
市内のレストランで昼食をとり午後1時過ぎに、シャウレイ郊外にある十字架の丘に向けて出発です。 |
||||||||||
|
||||||||||
|
||||||||||
午後4時過ぎ、十字架の丘の観光を終え、今日のホテルのあるラトビアのリガに向けて出発です。 | ||||||||||
トップページに戻る リガ歴史地区を見る バルト三国に戻る | ||||||||||