鎌倉散歩 その2(2016.11.13撮影) |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
神奈川県の指定文化財である本堂は、寄棟造、茅葺、方五間の仏堂となっていて、本尊の十一面観音像などが安置されています。(境内が狭いので24㎜のレンズでも全体を写すことができません。) | |||||||||||
五輪塔群 |
鐘楼堂では大晦日に除夜の鐘が鳴らされ、参拝者が鐘を搗くこともできます。 |
||||||||||
六地蔵と身代わり地蔵 初め見たとき何で7体の地蔵がと思っていましたが、右端にあるのは身代わり地蔵で、「七地蔵」とも呼ばれています。身代わり地蔵は、三浦氏の内部争いの際に、杉本太郎義宗に放たれた矢を代わりに受けて血が出たと伝えられています。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
報国寺 | |||||||||||
杉本寺から更に歩いて約10分、「竹の寺」で知られる報国寺に到着です。 報国寺は、建武元(1334)年に天岸慧広の開山により創建、開基は足利尊氏の祖父足利家時とも上杉重兼とも伝えられている臨済宗の寺です。 寺は、鎌倉三十三観音霊場の第10番、鎌倉十三仏霊場の第八番(観音菩薩)、東国花の寺百ヶ寺の鎌倉五番札所となっており、訪れる人が少なくありません。 |
|||||||||||
本堂 | |||||||||||
|
|||||||||||
竹の庭に入ると奥に凝灰岩を穿って造られた「やぐら」が見えます。このやぐらは開基である足利家時と、永享10(1438)年に起きた永享の乱で自刃した足利義久の墓ではと伝えられています。 | |||||||||||
石仏群 | |||||||||||
|
|||||||||||
竹の庭 | |||||||||||
旧華頂宮邸 | |||||||||||
報国寺の山門から歩いてすぐのところにあるのがこの旧華頂宮邸です。 昭和4(1929)年に伏見宮邦家親王の第12王子である博経親王によって創設された宮家の公爵邸として建てられたもので、平成8(1996)年に鎌倉市が取得して庭園部分を一般公開しています。 建物は3階建ての銅板葺きの洋館風で、国の登録有形文化財に指定されており、また、日本の歴史公園100選にも選定されており、フランス式庭園には季節の花が咲き乱れます。 庭園の奥には、茶室無為庵がありますが、普段は公開しておらず、年に数回だけ無為庵及び和風庭園が公開されます。 |
|||||||||||
浄妙寺 | |||||||||||
旧華頂宮邸から鎌倉街道に戻って約10分で浄妙寺に到着です。 浄妙寺は、文治4(1188)年に足利嘉兼の開基、退耕行勇によって開山されたお寺で、正式な名前は稲荷山浄妙広利禅寺といい、鎌倉五山の第五位、鎌倉三十三観音の第九番のお寺で、創建当時は真言宗の極楽寺という名前でしたが、その後臨済宗のお寺となり、現在の名前に変更されています。 寺は南北朝時代に最盛期を迎え、塔頭23院を有していましたが、その後数度の火災にあって衰退していました。現在の本堂は、江戸時代中期のもので、寄棟造、銅板葺(もとは茅葺でした)となっています。 |
|||||||||||
本堂 | |||||||||||
足利貞氏の宝篋印塔 この墓は鎌倉時代末期の御家人で、室町幕府の初代将軍となった足利尊氏の父である足利貞氏の墓と伝えられており、明徳3(1333)年の銘がありますが、貞氏が亡くなったのは元弘元(1331)年ですので、貞氏の墓ではないのではといわれています。 |
|||||||||||
足利直義の墓 足利貞氏の三男で、足利尊氏の弟であった直義は、将軍尊氏を補佐して政務面を統括していましたが、尊氏の執事である高師直との確執から、兄尊氏とも袂を分かつこととなって失脚(観応の擾乱)。 直義は出家して東国に逃れましたが、浄妙寺境内にあった延福寺に幽閉され、文和元(1352)年に急死しました。死因については病死となっていますが、「太平記」では毒殺であると記されています。 |
|||||||||||
喜泉庵の庭園 喜泉庵は天正年間(1573 ~ 1591年)に建てられた茶室を復元したもので、枯山水庭園となっています。 |
|||||||||||
トップページに戻る 鎌倉に戻る | |||||||||||