一乗谷朝倉氏遺跡と丸岡(2010.5.20撮影)

一乗谷朝倉氏遺跡
 
一乗谷朝倉氏遺跡は、福井市の郊外にある三方を山に囲まれた一乗谷にあり、ここに戦国時代に朝倉氏が築いた戦国時代の城下町跡です。
天然の要害に守られたこの一乗谷城(日本百名城)には朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が配置され、「北の京」とも呼ばれるほど栄えたこともあったようですが、織田信長の軍勢により火を放たれ灰燼に帰し、後にこの地を統治した桂田氏も一揆により討ち取られ、その後はここを統治するものもなく埋もれていったとのことです。
現在は、その遺構が残っているほかに一乗谷川をはさんだ反対側に武家屋敷等が復元されていますが、訪れた時間が早かったせいか入館できず、遺構のみを見ることとなりました。
 
   
 
一乗谷城の前を流れる一乗谷川
 
米津(よねづ)
城下町の中心地近くにあるこの米津からは金属を加工する道具や型などが発掘されていることから刀装具を製作していた場所ではといわれています。
 
諏訪館跡庭園
諏訪館は朝倉義景の夫人の館であったといわれ、ここに造られた庭園は回遊式林泉庭園で一乗谷の中では最も規模の大きい庭園であったようで、今は小さい池があるだけですが、その昔は大きな池がここにあったようです。現在この庭園は特別名勝に指定されています。
 

ノアザミ

白い花の踊子草
 
中の御殿跡
朝倉義景の実母光徳院の屋敷跡と伝えられ、南側に門を配し、東側に土塁、北側にから濠が設けられています。
 
から濠
 
湯殿跡庭園(特別名勝)
こちらも回遊式林泉庭園で大きな池があったようですが今は石組みが残るだけとなっています。
 
朝倉義景館跡
朝倉義景の館があったところで、館の周りは濠が造られ御殿、主殿、侍所、台所、湯殿等が整然と配置されていたとのことです。
   
 
唐門(左)と朝倉館のお濠  
   
丸岡城

福井県坂井市内の小高い丘の上に建つ丸岡城、霞ヶ丘城とも呼ばれるお城で、柴田勝家の甥の勝豊により天正4年(1576年)に二重三層の平山城として築城されたもので、江戸時代は本田氏と有馬氏が城主となっていました。
現在残っているのは天守閣と石垣だけですが、この天守閣は現存12天守の中でも最も古い物で、国の重要文化財に指定されており、日本100名城の36番に選定されています。
 
   
 
   
 
 
天守閣内部
一番上の階でも広さは40uとのことですからとても小さい天守閣です。ちなみに天守閣に上る階段はとても急勾配で、段の間の間隔も広く危険なため上からロープが張ってあります(写真の左側に白く見えるのがそのロープです。)。
 
       
日本一一番短い手紙
徳川家康の家臣であった本多作左衛門重次が陣中から奥方に送った手紙の内容が刻まれた石碑です。
碑には「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」と短い手紙の中に用件が簡潔明瞭に記されていますね。なお文中の「お仙」とは、幼名を仙千代と名付けられていた、後の丸岡城主成重とのことです。
私が子供の頃には学校の教科書で習った記憶がありますけど、今の学校ではどうなのでしょうか。
坂井市では毎年「一筆啓上」賞を行っており、全国から手紙が寄せられているようです。
 
    
井戸「雲の井」
丸岡城の別名である「霞ヶ城」の由来ともなった井戸で、一向一揆の攻め手が押し寄せるとこの井戸から蛇が出て城の周りに霞をかけ危機を救ったとの言い伝えからこの別名がついたとのことで、現在でも春先には霞がかかったお城を見ることができるようです。
 
 
       
                      
       
  
  
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