広島平和記念公園(2016.05.30撮影)

平和記念公園又は平和公園とも呼ばれているこの公園、広島市の大田川と元安川の合流部にある中洲に造られた公園で、第2次世界大戦末期の昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分に、米軍のB29爆撃機『エノラ・ゲイ号』により投下された世界で最初に使用された核兵器である原子爆弾により壊滅した6町の跡地に、丹下健三氏の設計により昭和29年(1954年)に完成したものです。
 
       
  爆心地の碑

原爆は市内を流れる太田川と元安川が合流する地点に架かる相生橋が投下目標地点だったとのことですが、実際には原爆ドームから200mほど西側にある島病院(現在は島外科内科)のところで炸裂したとあります。
 
   
原爆ドーム
 
広島に落とされた原爆の惨禍を後世に伝えるための被爆建造物で、大正4年(1915年)に広島県産の製品の拡販を目指して建てられた「広島県物産陳列館(被爆当時は「広島県産業奨励館」と呼ばれていました。)」で、戦後被爆建造物修復や撤去が進み、廃墟となったこの建物も撤去すべきであるとの意見も出始めていましたが、平和記念公園建設の際には丹下健三氏の設計が原爆ドーム、として原爆死没者慰霊碑、広島平和記念資料館が南北方向に一直線上に位置するよう設計されており、公園のシンボルとなっていました。
ドームはその後風化が進み崩落の危険が生じ、市民からは「いつまでもあるのは惨禍を想い出すので撤去して」との根強い意見もありましたが広島市は昭和41年(1966年)に永久保存することを決定し、定期的に補修工事を行うこととなりました。
この原爆ドームは、平成8年(1996年)にユネスコの世界文化遺産に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、「負の世界遺産」(他には「アウシュヴィッツの強制収容所」、「ビキニ環礁の核実験場跡」、奴隷貿易の拠点となった「ゴレ島」などがあります。)
とよばれています。
世界遺産登録後は訪れる人も多くなり、柵で囲まれていて内部への立ち入りは禁止となっているにもかかわらず、内部に立ち入り、落書きや悪ふざけするなど迷惑行為が絶えないようで、対応に苦慮しているようです。
 
     
 
     
   
    
カラスにご注意!!
左上の写真を撮っているときいきなり後頭部にカラスが体当たり、そのうえ追いかけられて危うく転倒するところでした。右に少し見えるところにカラスの巣があるようで、4月から7月にかけては子育てしているカラスも多いので、お出かけになる方はご注意を
 
    
  元安川越しに見る原爆ドーム
左側の橋は原爆投下目標とされていた相生橋です。
 
     
  平和の鐘
平和記念公園内にある鐘で、「すべての核兵器と戦争のない、平和共存の世界の達成」を願って建設された、宇宙を表現するドーム屋根の中に、鐘造りの人間国宝香取正彦氏が鋳造した口径約1m、高さ1.7m、重さ1.2tの鐘があり、鐘には国境のない世界地図が刻まれています。
 
     
原爆の子の像
昭和33年(1958年)のこどもの日に、2歳で被爆し、12歳の時に白血病で亡くなられた佐々木禎子さんの同級生たちが、全国に「原爆で亡くなられた子供たちの慰霊碑を造ろう」と呼びかけ、3000校を超す学校の生徒とイギリスをはじめとする世界9ヶ国の支援により完成したもので、6mの台座の上に3mの高さのブロンズ像が置かれていて、像の下にある石碑にはこれはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。
        
 
   
平和の灯
「平和の池」と呼ばれている池の中央にあり、全国12宗派からの「宗教の火」、全国の工場地帯からの「産業の火」を火種としており、その中には宮島弥山の「消えずの霊火」が用いられています。
奥には原爆死没者慰霊碑と原爆資料館(広島平和記念資料館)がみえます。、
 
 
     
原爆死没者慰霊碑
平和記念公園の中央にあるこの慰霊碑は、正式には」広島平和都市記念碑」といい、日系人の前衛彫刻家イサム・ノグチ氏のデザインを基に丹下健三氏が設計して昭和27年(1952年)に建立されたもので、背後には原爆資料館、正面に平和の灯そして原爆ドームが望める位置にあります。
慰霊碑の石碑前面には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれています。
   
 
     
  被爆樹木のアオギリ2世
市内で爆心地から2キロ以内で被爆しながら生き延びた樹木は56ヶ所あり、広島城内にもユーカリやクロガネモチなどがあります。このアオギリは爆心地から1300m離れた広島逓信局にあった樹の2世で、平和のメッセンジャーとして世界の各地でその苗木が育成されています。
 
   
広島平和記念資料館
原爆による惨状を後世に伝えるため昭和30年(1955年)に建てられたもので、本館と東館がありますが、訪れたときは東館は改修工事中で閉鎖されており一部のみの見学となりました。46年ぶりの入館ですが、見学時間も短かったため展示されているもののうちの一部しか撮影できませんでしたが、このような惨劇が二度と起こらないよう願ってやみません。
 
     
  きのこ雲の写真
投下された原爆から発生したきのこ雲の状態を爆心地から離れたところに住んでいた人たちが撮影したものです。
 
     
  原爆投下後の市内のジオラマ
中央の赤い球は投下後1秒後に直径280mとなった火球を示しており、その下の薄黒くなっている部分が爆心地となりました。
 
     
  被爆再現人形
館内の展示物の中で一番知名度の高いものがこの再現人形で、開館当時はマネキンを用いて被爆当時の惨状を表していましたが、その後プラスチック製の人形3体に置き換えられて展示されています。
この人形については平成30年(2018年)に実施する予定の改修工事で、「見た目が怖すぎる」との入場者からの意見が相次いで、撤去するとの方針が打ち出されたようですが、Yahooが撤去についての意識調査を行ったところ、現状維持が60%以上あったとか。
確かに見た目は怖いかもしれないけど、このような状態になるんだということを知ってもらうにもいい展示物だと思いますけど、いかが思いますか。
 
     
  女子学生の夏服とシュミーズ
爆心地から西に800mほど離れたところで疎開作業に動員されていて被爆した13歳の女子学生が着用していた衣服で、被爆後自宅まで救援隊に寄って運ばれましたが、水をほしがりながらその日の夜遅くに亡くなられています。
 
     
  黒い雨の跡
「黒い雨」とは、原爆投下後に降る、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすなどを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種で、広島では投下後に県内北西部で大雨が降った際に、このような黒い雨が降り白壁に黒い線が残りました。
雨には強い放射能が含まれているため、雨に打たれた人たちが二次的な被爆の被害を受け、白血病などに罹り亡くなれています。
 
   
 
 
     
     
     
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