ハイデルベルク ドイツ北西部のフランケン地方のネッカー川とライン川が交流する地点にほど近いところにある町ハイデルベルク、ドイツ古城街道やファンタスティック街道が通る町で多くの観光客が訪れる町です。 町の歴史は紀元前500年頃まで遡ることができるようで、1世紀には石積みの城が築かれ、ネッカー川に橋も設けられていました。 町は第二次世界大戦の被害にあわなかったこともあり、中世のたたずまいを示す旧市街の街並みが遺されています。 |
||||||||||
ハイデルベルク城 ドイツで最も有名な城址のひとつであり、ヨーロッパ100名城のひとつであるハイデルベルク城は、ネッカー川を望む旧市街の高台にあり、1215年に神聖ローマ帝国のライン宮中伯に叙せられた、バイエレン大公が城主となったのがはじめです。13世紀末から14世紀のはじめにかけてオベーレ・ブルク(上の城)とイェッテンビュールにあるウンテーレ・ブルク(下の城)と呼ばれた二つの城があったことがわかっていますが、16世紀半ばにオベーレ・ブルクは落雷により破壊され、その後の30年戦争時の1622年により砲撃の被害を受け、その後1649年に再建されるも、1693年のプファルツ継承戦争で大きな被害を受けるなど度々戦禍にあい、1764年の落雷で被害を受けたのちはそのまま放置されることとなりました。 |
||||||||||
エリザベート門(エリザベス門) 1615年にフリードリヒ5世が妻エリザベス・ステュアートの誕生日の記念に建てたといわれる門で、門を入るとシュトュックガルテンになります。 シュトュックガルテン(Stückgarten) のシュトックとはかつてこの場所に設置されていた大砲のことですが、フリードリヒ5世が遊歩庭園に造りなおさせたものです。 この庭園を造ったことにより城の防御機能が低下し、30年戦争時にはここから敵が城に侵入したといわれています。 なお、エリザベス・ステュアートはイングランド王ジェームス1世の皇女であり、その孫がイングランド王ジョージ1世となります。 |
||||||||||
|
||||||||||
濠 城内に入る手前には橋が架けられています。その下は濠となっており、濠はヒルシュグラーベン (Hirschgraben) とも呼ばれており、これはこの濠で、かつてシカ (Hirsch) やクマが飼われていたことに由来する名称です。濠は城全体を囲っているものではなく城の西側だけに造られていました。 橋は現在は石橋となっていますが、当時は跳ね橋だったのではないでしょうか |
||||||||||
ゲーテの碑文(下左)と橋楼(下右) 橋楼前の石橋の右側の欄干に埋め込まれたプレートには、「An dieser Stelle zeichnete in Jahre 1779 Goethe den ges prengten(1779年にゲーテがここで爆破された搭の絵を描いた)」と刻まれています。橋の右奥には崩れ落ちた火薬塔が残っていますが、1779年にこの地を訪れたゲーテがここでスケッチを行った記念のプレートです。 |
||||||||||
|
||||||||||
ループレヒト館と図書館棟 プファルツ選帝侯ループレヒト3世の名がついたル―プレヒト館は、城内で最も古い建物といわれ、19世紀末の改修工事で発見されたロマネスク様式の窓の断片などから1300年頃に建てられたと推測されています。 ル―ブレヒト館の右側奥にあるのは図書館棟と呼ばれており、1520年から1544年頃にかけてルートヴィヒ5世によって建てられたものですが、かつてここにあったとされる図書館に因んで名づけられたもので、実際の図書館は別の場所であったとのことで、選帝侯の金庫や広間となっていたようです。この建物は1689年のフランス軍の攻撃を免れましたが、1693年のプファルツ継承戦争の際に破壊されました。 |
||||||||||
フリードリヒ館 フリードリヒ4世選帝侯の名がつけられたこの建物は、崩れかけていた城内礼拝堂と居館があった場所に、1601年から1607年にかけてフリードリヒ4世によりたてられたもので、中庭に面したファサードにはカール大帝をはじめ歴代の選帝侯の彫像が置かれています。 |
||||||||||
ガラスの広間棟 3階部分にヴェネツィア・ガラスで飾られた鏡の広間があったことからこの名がついたもので、中庭に面した各階にはルネサンス様式のアーケードが設けられています。現在のガラスの広間棟は30年戦争後に選帝侯カール1世ルートヴィヒにより再建されたものですが、1674年に2度の落雷の被害を受けて内部はすべて焼失しています。 |
||||||||||
|
||||||||||
|
||||||||||
|
||||||||||
アルタンから見るハイデルベルクの街並み | ||||||||||
|
||||||||||
|
||||||||||
カール・テオドール橋から見るハイデルベルク城 |
ハイデルベルク大学の教授や学生が散策した哲学者の道(写真中央の茶色っぽい部分) |
|||||||||
|
||||||||||
市庁舎 マルクト広場にあるこの市庁舎は1693年のプファルツ継承戦争後にバロック様式で建てられたもので、建築後何回か増改築が行われて現在の姿になっています、 |
||||||||||
聖霊教会 マルクト広場にあるハイデルベルクで最も有名な教会で、1440年から建設がはじまり、完成したのが1544年といわれており、高さ82mある鐘楼が特徴的です。 |
||||||||||
|
||||||||||
学生牢 アウグスティーナーガッセ(Augstinergasse)という細い通りにある、かつてのハイデルベルク大学の学生収監施設で、警察の権力の及ばない学内での悪質な規則違反者を収監していた施設で、1712年から1914年まで用いられていました。 違反者は最低で3日間、最長で3週間程度収監されたとのことであり、収監中でもここから授業に通っていたとのことですから、一般の収監施設よりは緩い縛りであったようです。 |
||||||||||
ハイデルベルク大学 正式名称はルプレヒト・カール大学ハイデルベルクといい、1386年にプファルツ選帝侯ループレヒト1世によって創立されたドイツでは最古の大学で、左は18世紀初頭に建てられた旧大学校舎、右は新大学校舎です。 |
||||||||||
マルティン・ルター訪問の碑 大学広場の石畳にあるこの丸い碑は、宗教改革で知られるマルティン・ルターが、1518年4月26日に、ウォルムスで彼の95か条の論題を説明しにいく途中、ハイデルベルクに立ち寄ったことを記念している碑です。 |
||||||||||
トップページに戻る ドイツその2に戻る ライン川クルーズを見る | ||||||||||