府内城(2014.12.7撮影)      

 
大分市の中心部、荷揚町にある日本百名城94番の府内城(別名:大分城、荷揚城、白雉城)は安土桃山時代の後期慶長2(1597)年に12万石で入府した福原直高により築城が開始されたが、途中で福原氏は改易にあい、関ヶ原の戦い後に3万5千石で入府した竹中重利により完成されました。(ちなみに「府内」という名は中世の時代に大分の中心部が府内と呼ばれていたことからきています。)
城は北は別府湾、東は大分川があるところに建てられた典型的な平城で、三つの曲輪とそれを仕切る三重の濠で構成され、それぞれの曲輪は櫓や廊下橋で連結されていました。四重層の天守を含む建物は貫保3(1743)年の大火で焼失し櫓等は再建されるも天守の再建は行われておらず、残っていた櫓等も第二次世界大戦の際の大分大空襲により焼失。現在は昭和40(1965)年に再建された大手門、東丸着到櫓、二重櫓、西丸二重櫓があるだけとなっています。
   
      
大手門
正式名称が「多門櫓門」のこの門は府内城の玄関口となる門で三の丸と廊下橋で繋いでいました。大手門は戦災により焼失し、昭和40(1965)年に復元されたもので、下左は三の丸川から、下右は曲輪内から撮影したものです。
 
   
   
冠木門跡
西の丸と廊下橋の間にあった門で、櫓や楼がある門ではなく単に門柱に扉がある簡単な門でした。石垣は当時のものです。
   
     
  廊下橋
廊下橋は城内各所に配置されていたようですがこの廊下橋は西の丸と山里丸を結ぶ渡り廊下で、大手門にあった廊下橋を古絵図元に復元されたものです。
橋は長さ21.7m、幅2.4mあり、総檜造りで屋根は檜皮葺となっています。
 
     

西の丸側から撮影
  
(クリックすると大きく表示されます)
  
山里丸から撮影
 
      
人柱お宮跡
築城の際に度重なる水害により工事が難航、城に程近い上野六坊に住む娘である「宮」が弁財天の木像を抱いて人柱になったことから工事が順調に進んだといわれており、お宮は弁財天と共に鎮守としてあがめられたと伝えられていると説明板に記されています。
「人柱」と聞いて「何?」と思う若い人がいるかもしれませんが、「人柱」は人身御供の一種で大規模建築の際に工事の無事を祈って人間を生きたまま土中に埋めたり或いは水中に沈める慣わしのことで日本だけでなく世界の各地で行われていた風習です。
   
     
人質櫓
府内城は度重なる火災や地震、そして戦災により多くの建物が失われていますが、本丸跡北西隅にあるこの人質櫓は文久元(1861)年に再建された二重櫓で、宗門櫓とともに江戸時代に建てられたものです。 
 
   
     
  西の丸二重櫓
西の丸の西南隅にある櫓で昭和40(1965)年に復元されています。
写真中央部には宗門櫓、その右には東丸到着櫓が見えます。
 
     
宗門櫓
人質櫓と共に残る江戸時代の遺構で、安政6(1859)年に建てられており、外側から見ると平櫓に見えますが城内から見ると二重櫓の構造となっいます。
   
     
  天守台
慶長7(1602)年に天守閣が4重層、16mの高さで建てられましたが貫保3年の火災で焼失、以後再建されることなく現在に至っています。
大分市では天守閣再建の構想もあるようですが、経済情勢厳しき折から実現の目途はたっていないようです。
 
     
北原白秋の歌碑
歌碑には「白雉城お濠の蓮の ほの紅に 朝眼よろしも 妻のふるさと」と刻まれており、ここ大分は白秋三番目の妻「菊子」の故郷です。
   
     
  東丸二重櫓
お濠端を歩いていて気がついたのがお濠の水のきれいさです。曇っていますがお濠には櫓がきれいに映っています。このお濠の水は公共下水の処理水を再利用したもので、平成12(2000)年に、「甦る水百選」として建設大臣表彰を受けています。
  
 
     
     
        
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