福山城(2015.11.03撮影)      
広島県福山市の福山駅北側にあり日本100名城71番に選定されている福山城は、久松城または葦陽城とも呼ばれていた輪郭式の平山城で、江戸時代の元和8年(1622年)に徳川家康の従兄弟である水野勝成が福島正則の改易に伴い入封し、当地より約6㎞北東に築かれていた村尾城(神辺城)に変わる城として築城された近世城郭で最も新しい城です。
城は瀬戸内海にそそぐ芦田川と支流の吉津川のデルタ地帯に築かれ、西国街道と瀬戸内海の要衝を護る城となっていました。
水野勝成が慶安4年(1651年)に死去した後は勝俊、勝貞、勝種と藩主が続きましたが5代藩主の水野勝岑がわずか1歳で家督相続後夭折、水野家は無嗣断絶となり、以後、松平氏が10万石で入封、更に阿部氏が宇都宮より同じく10万石で入封し明治まで続きました。
明治時代の廃城令後は施設の殆どが民間に払い下げられ、本丸以外の建物は解体して建設資材として売却されました。本丸については破却を免れ、明治30年(1897年)に天守、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿の修理が行われ、昭和8年には当時の国宝保存法により国宝(現在の重要文化財に相当)に指定されましたが、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月の空襲で全てが焼失。
現在の天守、月見櫓、御湯殿、鏡櫓、鐘櫓は昭和39年(1964年)から昭和48年(1973年)にかけて復興されたものです。

再建された天守が「復元」ではなく「復興」とされているのは、資料が多く残っていたにもかかわらず、建築基準法に従って現代的な美観を優先して、史実と異なる不正確な姿で再建されたため、「復元」ではなく「復興」に分類されてるとのことです。
 
       
天守閣
天守閣は5重5階地下1階の層塔型で築城されましたが、4重目の屋根を桧皮葺とすることで名目上は4重としていたようです。
 

天守閣南面
 
天守閣北面
 
     
  天守から見る福山の街並み
中央に見える二本の尖塔はホーリーザイオンズパーク・セントヴァレンタイン教会といい、ゴシック様式で建てられており、尖塔の高さは約60mあります。
 
     
  天守から見る本丸
一番奥には福山駅が見え、その左手前には月見櫓、中央には御湯殿があります。訪れたこの日は菊花展の開催中でした。
 
     
   
月見櫓
内一番櫓ともいい、本丸の南東隅にあり、藩主の到着を確認するための役割も持っていて、京都の伏見城より移築したといわれており2層2階建てで附櫓が北側にありました。現在の月見櫓は昭和41年(1966年)に再建されたものですが、保存されている資料とは窓の配置等が異なっているようです。(左は本丸内部から、右は二の丸南側から撮影)
 
   
御湯殿
本丸南側にあり、伏見城から移築されたといわれていて、石垣から建物を突出させた懸造の座敷(展望室)と湯殿(蒸風呂)で構成されています。
「御湯殿」と呼ばれるようになったのは大正時代後ら彼で江戸時代では「御風呂屋」と呼ばれていたようで、「御湯殿」と呼ばれる施設は本丸の別の場所にあったようです。(何れも二の丸南側から撮影)
     
 
   
  筋鉄御門
重要文化財に指定されているこの門は、本丸正面にある脇戸付きの櫓門で、その名の通り扉や門柱に筋状の鉄板が打ち付けられています。
この門についても伏見城から移築されたとする説もあるようですが、文献では移築に関する記述は記載されていないようです。
 
     
   
伏見櫓
正式には「内十番櫓」といい、三層入母屋造りで、初層と二層は総二階造といわれる同規模の構造を持ち、その上に独立した構造の小さな望楼部を乗せる慶長初期の建築様式を残した望楼型の櫓で、慶長6年に建てられたと推定されている京都の伏見城の松の丸の東櫓を元和6年(1620年)に移築したもので、解体修理時に「松ノ丸ノ東やくら」と墨書きが発見されていて移築を証明つけており、熊本城の宇土櫓とともに現存する最古の櫓となっており重要文化財に指定されています。
 
     
  鏡櫓
正式には「内二番櫓」といい、二層二階建てで月見櫓の北側に建てられており、その名からか鏡やほかの物品等の倉庫としていたようです。築城時の櫓は廃城令後に取り壊されており、現在の櫓は昭和48年(1973年)に市民の寄付により建てられたもので、内部は文書館として利用されています。なおこの櫓も往時の姿とはちょっと変わっているようです。
 
      
   
鐘櫓
築城当時は鐘突堂と呼ばれており、御台所門と火灯櫓を結ぶ枡形門に設置されていた鐘楼でした。初期の絵図面では鐘搗堂が描かれていないとのことで、福山市の設置した説明板では城内に鐘櫓があるのは例がないと記されていますが、当初から本丸にあったのか定かではないようであり、現在の姿は昭和54年(1979年)に修理、復興されたもので、一部が福山市の重要文化財となっています。
 
     
備後護国神社
 
福山城の北側にあるこの神社は旧称を「阿部神社」といい、歴代の備後福山藩主が祭神として祀られています。
神社の創建は明治元年で、慶応2年(1867年)の長州藩との石見益田における戦いと明治元年(1868年)からの箱館戦争で戦死した藩士たちの霊を祀るために招魂社を創立したのが始まりで、昭和14年(1939年)に福山護国神社となり、昭和32年(1957年)に現在の備後護国神社に改称したものです。神社の境内には阿部氏の創立した阿部神社も境内社として残っています。 
 
     
   
     
  宮本武蔵の腰掛け石
境内にあるこの宮本武蔵の腰掛け石は、伝承によると武蔵が福山を訪問した際に水野勝成の従兄弟で水野家二番家老の中山将監の屋敷で開かれた饗宴で庭に置かれたこの石に腰掛けたといわれ、水野家が無嗣断絶後もその後を引き継いだ阿部氏の家老宅にそのまま置かれ、福山藩廃藩時に阿部神社に奉納されたとあります。
 
     
福山城の縄張りには22の櫓と長大な多門櫓が置かれていたとのことでその遺構も多く残されていますが、わずか1時間足らずの観光時間ではこれだけ写真を撮るのが精いっぱい。残りを見て回るのは次の機会に。  
     
 
 
     
     
     
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