藤沢街あるき その1
 
旧東海道6番目の宿場町として栄えた藤沢宿、現在は神奈川県で4番目の45万人を有する街となっています。観光というと湘南海岸、そして江ノ島を思う人が殆どですが、藤沢駅周辺にも歴史的な建造物等があります。今回は藤沢駅北口から遊行寺、白旗神社などを歩いてみました。
 
    
藤沢駅の北口から歩きだして、遊行通りそして国道467号線と歩きましたが、道路は無電柱化されており、すっきりした街並みとなっています。
無電柱化すると、街の景観は良くなりますが、トランスや分電盤等を地上に置かざるを得なくなり、地上装置が歩道のあちこちに置かれるようになります。
ここ藤沢ではご覧のように地上装置に浮世絵風のイラストを描いています。
写真を撮るためあちこち街歩きをしますが、このようにしているのは初めて見ました。
     
 
   
船玉神社
旧鎌倉街道沿いにあるこの神社は、鎌倉時代に三代将軍源実時が、宗にわたる船の用材を切り出したところといわれ、海上安全の守護の願いをこめて勧請したといわれています。
(所在地:藤沢市大鋸2-4-12)
 
     
感応院
正式な名称を三島山瑞光寺感応院というこのお寺は、建保6(1218)年に道教を開山、源実朝を開基として創建され、藤沢宿では最も古い歴史のあるお寺です。
境内に入ると、弘法大師修行像が正面にあり、向かって左奥には三島大明神があります。
この三島大明神は、源頼朝が藤沢清親を奉行として伊豆国三島大社を勧請して創建したと伝えられています。「藤沢」という地名はこの藤沢清親からきているという説もあるようです。
そばまで行って写真を撮らなかったのですが、社殿が長谷寺の輪蔵と同じように、回転するように作られていて、お参りする際に経が納められた堂を回転するとご利益があるといわれています。
(所在地:藤沢市大鋸2-6-8)
   
 
    
遊行寺
正式な名称は、藤沢山無量光院清浄光寺といい、時宗の総本山で、通称の遊行寺又は藤沢道場の名で知られています。
寺は遊行上人4世の呑海によって正中2(1325)年に開山され、寺の門前町が藤沢発祥の地となりました。
寺への入口は黒門とも呼ばれている黒塗りの冠木門形式の惣門(総門)で、門の手前には、天保13(1842)年建立と碑文のある青銅製の燈籠があり、惣門をくぐると、阿弥陀様の四十八願にたとえて、「いろは坂」又は「四十八段」と呼ばれている上り坂となります。坂の両側は桜並木となっていて満開の時は写真のように桜のトンネルとなって見事です。
 
   
   
  板割り浅太郎の墓
惣門を抜けるとすぐ左側に「板割り浅太郎の墓」と書かれた看板があり、「貞松院住職列成和尚」の墓となっています。
若いころに聴いた、広沢虎造が演じた浪曲「国定忠治・名月赤城山」の「赤城の山も今宵限りか、かわいい子分のてめえ達とも別れ別れになる旅立ちだぁ」のセリフは今でも覚えていますが、その舞台は群馬県。
なんでここ藤沢にお墓があるのかと不思議に思いましたが、墓の横にある由来には、国定忠治の子分であった板割り浅太郎は、赤城山の騒動で、忠治と別れた後に仏門に入り、自分が殺した伯父親子の菩提を弔い、遊行寺の堂守を務め、この地にあった貞松陰の住職となったとあります。
右はいろは坂の右にある遊行寺の塔頭である眞徳寺の赤門です。(逆光での撮影ですので少しハレーションを起こしています。)
 
 
     
  山門跡
いろは坂を登りきったところにあった山門は、明治13(1880)年に起きた藤沢宿「大川火事」での被害を受けて焼失しましたが、それまでは銅屋根の仁王門となっていました。

現在は石造りの門に、時宗の宗紋である「折敷に三文字紋」があります。
 
        
  酒井長門守忠重逆修六地蔵供養塔(左)と五輪塔(右)
出羽国村山郡白岩領(現 寒河江市白岩)の領主であった酒井忠重が、万治3(1660)年に逆修のため建立した六地蔵であり、領主時代に領民千人あまりの餓死者を出すなどの苛政を行い改易されています。その後、下総市川で蟄居中に襲われ寛文6年に亡くなりこの地に葬られたとのことで五輪塔が建立されています。
この「逆修」の意味を調べると、「生き残った老人が若くして死んだ者の冥福を祈ること」とありますが、苛政を悔いての建立だったのでしょうか。
 
 
   
小栗堂
永享元(1429)年に遊行寺の塔頭として建立された寺で、長生院というのが正式な名称です。
小栗堂の名からわかるように、小栗判官伝説に出てくる照手姫が、晩年尼となって長生尼と名乗って住んだと伝えられている伝説が残されています。
   
     
小栗判官と十勇士の墓
小栗堂の裏手に回ると、小栗判官助重とその家臣の墓があり、墓の右手には小栗判官が髪を洗ったと伝えられる小さな池があります。
小栗判官の墓の後ろには、照手姫の墓と人食い馬と言われる荒馬の「鬼鹿毛」の墓があります。
 

小栗判官と十勇士の墓
 
小栗判官髪洗いの池
 
照手姫の墓
 
名馬鬼鹿毛の墓
 
     
  地蔵堂
関東大震災で倒壊した地蔵堂も平成26(2014)年に再建され、享保六(1721)年辛丑年四月廿四日の日付が刻まれた、本尊の「ひぎり地蔵菩薩像」が安置されています。
右は地蔵堂横にある「なでなで地蔵」です。
 
 
     
  本堂
阿弥陀如来坐像を本尊とする本堂は、関東大震災で倒壊したのちの昭和12(1937)年に再建されたもので、木造の本堂としては東海道随一といわれる大きさです。
 
     
  宗祖一遍上人の像
本堂手前の右手にある一遍上人の像は、太平洋戦争時の金属類回収令により供出され、昭和45(1970)年に寄進により建立されたものです。
    俣野大権現社
開山呑海上人の兄の俣野五郎景平を祭神とするこの権現社は、埼玉県行田市にある長久寺の寄進により建立されています。
 
     
  境内の中央に聳え立つ.大銀杏は樹齢が500年とも700年ともいわれるもので、藤沢市の天然記念物となっています。  
     
  鐘楼
鐘楼に吊り下げられている銅鐘には南北朝時代の延文元(1356)年(南朝では正平11年)鋳造の碑文があり、総高168cm、口径92cmの大きさで、鎌倉地方の鋳物工物部氏の一族である光連の鋳造であることが奥書で判明しています。
この鐘は、永正10(1513)年に兵火により全山焼失した際に北条氏によって持ち去られていましたが、寛永3(1626)年に檀徒の手によって取り戻され現在に至っています。
 
     
  南部右馬頭茂時の墓
南北朝時代の元弘3年/正慶2年(1334年)、新田義貞の鎌倉攻めの東勝寺の合戦で北条氏が敗北、北条高時ら一族は自害し鎌倉幕府は滅亡しましたが、南部茂時は囲みを抜けてこの地に至り自害したと伝えられています。墓の両側には家臣の墓である五輪塔があります。
 
     
  放生池
五代将軍徳川綱吉の時代の元禄7(1694)年に「生類憐みの令」が発布され、「金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺の道場の池に、そしてその数を目付に届け出すべし」と記録されているとのことで、以来、現在も毎年の春季開山忌に、この放生池で放生会が行われています。
 
     
  中雀門(左)と御番方(右)
中雀門は、安政6(1859)年に建立された遊行寺では最も古い建造物で、向唐門造り四脚門形式で建てられており、紀州藩第十代藩主徳川治宝の建立によるものです。明治13(1880)年に起きた藤沢宿の「大川火事」の際に唯一焼失を免れましたが、関東大震災では倒壊し、その後復元されました。
御番方は、信徒たちの入口となるところで、「大川火事」の際に焼失し、大正2(1913)年に再建されるも関東大震災で倒壊し、すぐに倒壊当時の古材等をもって再建されました。
 
 
   
政宗稲荷大明神
妙善寺境内にあるこの稲荷社は、鎌倉時代から南北朝時代の刀工である五郎入道正宗がお参りをよく行っていたと伝えられる稲荷社で、後の人が「政宗稲荷」と名付けたといわれており、社殿には「政宗殿」の扁額が掲げられています。
(所在地:藤沢市藤沢1-5-3)
   
     
白旗神社
別名「白旗さま」と呼ばれるこの神社は、源義経を主祭神としており、創建年代は不明で、古くは寒川神社の祭神を祀っており、寒川神社と称していました。白旗神社と称されるようになったのは、宝暦2(1752)年からとのことです。
伝承では、文治5(1189)年に衣川の戦いで自害した義経の首級が鎌倉に送られ、首実検の後にこの地付近に葬られた(一説では飛んできた)ことから合祀されたと伝えられています。
なお、神社の入口となる鳥居は昭和59(1984)年に建立されたもので、高さ8m、幅6mあって、全国で初めてグラスファイバーを用いて設けられたものです。
(所在地:藤沢市藤沢2-4-7)
   
   

社殿
  

義経公鎮霊碑
 
 
          芭蕉句碑
「草臥亭宿かる此や藤の花」と刻まれています。
 
     
  永勝寺
このお寺は元禄4(1691)年の開山で、創建時は鎌倉にありましたが、慶長年間にこの地に移転したものです。
境内には飯盛女の墓(右の写真)があります。
藤沢宿で飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵が建てた飯盛女の墓です。
当寺、親の借金のかたとして売られてきた女たちは、飯盛女と呼ばれる過酷な生涯を送り、亡くなると無縁仏として葬られていましたが(吉原の遊女の投込み寺が有名)、小松屋のように抱えていた飯盛女墓を造る例は非常に珍しいものとされています。
(所在地:藤沢市本町4-4-15)
 
 
     
伝義経首洗井戸
衣川で自害した義経の首は、鎌倉の腰越で首実検後に片瀬の浜に捨てられたといわれています。のちに境川をさかのぼり白旗神社近くに流れ着いた首を里人がすくいあげ、この井戸で洗い清めたと伝えられています。井戸の左側には義経の首塚があります。
(所在地:藤沢市藤沢2-1-10)
   
     
常光寺山門と弁慶塚
常光寺は、正式名称を八王山摂取院常光寺といい、浄土宗のお寺で、鎌倉にある光明寺の末寺として元亀3(1572)年に創建されたお寺です。
山門の左手にある両手を合わせて首を傾げたお地蔵さんと思しき像のある碑は、明治5(1872)年に藤沢駅邏卒屯所と名付けられた警察署が置かれたところで、戦後に至るまでこの地が藤沢警察署となっていました。
山門の右手の道を常光寺沿いに歩き階段を上ると、八王子権現社があった林の中に、祠に入った弁慶塚があります。
(所在地:藤沢市藤沢本町4-5-21)
   
 
     
砂山観音堂
藤沢橋交差点そばの小高いところにあるこの観音堂は、正式には砂山観音堂といい、寛永年間に創建されたといわれており、創建当時は見渡す限りの砂原であったことからここに立つと素晴らしい眺めであったのではと伝えられています。
この観音堂の本尊の聖観音は、俗に「帯解観音」と呼ばれ、毎月17日には懐妊や安産守護のご利益を求める女性が多く訪れたといわれています。
(所在地:藤沢市藤沢692)
   
   
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