江戸東京たてもの園(2016.03.03撮影)
 
小金井市にある東京の桜の名所である小金井公園内に平成5年(1993年)に造られた江戸東京たてもの園は、江戸時代以降火災、震災そして戦災などにより多くの歴史的建造物が失われ、また、開発により取り壊しが行われていくことも多いため文化的価値の高い建物を移築、復元し文化遺産として保存展示し次世代に継承することを目的としています。
園内には30棟の歴史ある建物のほかに屋外展示物も多くあり、3月下旬からの桜の時期には多くの人でにぎわいます。

説明文の中にある【 】内の数字は同園発行の案内マップの数字です。
 
    
  午砲【❶】

江戸時代には寛永寺、浅草寺、日本橋石町などにある鐘が「時の鐘」で江戸の人たちに時を知らせていましたが、明治4年(1871年)皇居内の旧本丸跡に設置されたこの大砲から正午を知らせる空砲が発射され、都内の大部分で聞こえたといわれます。この音は「ドン」と呼ばれて人々に親しまれていましたが、昭和4年(1929年)にサイレンに変わるまで続いていました。
 
        
  東宮仮寓所跡【❷】

昭和21年(1946年)から3年間この地に学習院中等科の校舎があり、このためここに東宮仮寓所が建てられ、戦争中疎開していた日光から東京に戻った皇太子明仁殿下(現天皇)が住まわれていました。
なお建物は昭和24年(1949年)12月の火災で焼失しています。
 
        
  常盤台写真場【W1

昭和12年(1937年)に板橋区常盤台に建てられた写真館で、二階に設けられた撮影スタジオは、北側二階に摺りガラスを嵌めこんで安定した照度が得られるよう工夫されていました。
 
        
  ボンネットバス【㉙】

今は観光地でたまにしか見ることができなくなったボンネット型バス。いすゞ自動車が開発した「TS11型」の改良車で富士急行電鉄で用いられていたものを都バスのカラーに塗り替えています。
そういえば終戦後何年か都内では、後部からモクモクと黒い煙を吐き出す木炭バスが走っていたのを覚えています。
 
        
三井八郎右衛門邸【W2

三井財閥の総領家当主である三井八郎右衛門高公氏の住宅で、財閥解体後の昭和27年(1952年)に麻布笄町(現 港区西麻布)に建てられたものです。三井関連企業などから建設部材などを集めて建築されたもので、三井家の往時をしのばせるものとなっています。
 
    
   
        
   
        
   
        
  奄美の高倉【W3

鹿児島県奄美大島にあった高倉で、江戸時代末期に建てられたもので旧武蔵野郷土資料館が収集したものです。
高床式の構造の倉庫であり、湿気やネズミからの被害を避けるためのもので、八丈島などでも造られていました。
 
        
  八王子千人同心組頭の家【W5

この家は江戸時代後期に八王子市千人町に建てられたもので、八王子千人同心とは、江戸時代初期に武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えて甲州街道の宿場であった八王子に設けた職制で、十組(一組の構成は100人)あって、各組には千人同心組頭が置かれていました。
 
        
   
        
吉野家住宅【W4】(吉野家は江戸時代に野崎村(現 現三鷹市野崎)で名主を務めていた家といわれ、この建物は江戸時代後期に建てられたものです。)  
    
   
        
デ・ラランデ邸【W10
明治43年(1910年)に、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが、それまであった平屋建ての洋館を3階建てに増改築したもので、平成11年(1999年)に新宿区信濃町にあったものを移築したものです。
 
    
  瀬戸岡1号墳【❹】(レプリカ)

7世紀後半の飛鳥時代に造られたと推定され、あきる野市瀬戸岡で発掘された古墳で、「瀬戸岡古墳群」として現地には50基の古墳がとの史跡として残されています。
この古墳は河原石を用いた地下式横穴の石室で他では見られないけたちが特徴のようです。
 
        
  井之頭弁財天道の石碑【❺】

この石碑は明治31年(1898年)に武蔵野市吉祥寺に建てられたもので、井之頭にある弁財天(現 井之頭恩賜公園内の井の頭池そば)までの道しるべで、碑の向かって左には『之より左三丁(約327m)』と刻まれています。
    寛永寺灯篭【⓱】

台東区上野にある徳川将軍家の菩提寺であった寛永寺に、八代将軍吉宗公の没後の寛延4年(1751年)に献上されたものです。
 
        
  多摩川台8号(旧9号)墳【❻】

大田区田園調布の多摩川にほど近いところに「田園調布古墳群」と呼ばれる古墳があり、発掘調査によると6世紀前半から7世紀中頃に造られたことがわかっており、石室内からは武具や装身具が発見されているとのことですが、これはそのレプリカです。
 
        
     前川國男邸【W6

近代建築の発展に貢献し、日本モダニズムの旗手といわれた前川國男氏の自邸で、品川区上大崎に戦時下の昭和17年(1942年)に切妻屋根の和風で建てられたものです。戦災にも遭わずに昭和48年(1973年)まで自宅として利用され、その後解体されましたが部材が保管されていてここに復元されました。
 
 
 
 
     
  御殿山遺跡敷石住居跡【❽】

武蔵野市御殿山の井の頭池にほど近い台地で発見された遺跡にある住居跡で、縄文時代中期から末期にかけた造られたものと推定されています。
 
     
  方砂遺跡敷石住居跡【❼】

青梅市友田町にある方砂遺跡で発見された敷石住居で、円形、隅丸方形、柄鏡形の枠の中に比較的平らな河原石を敷きつめて造られた住居となっており、縄文時代の中期から後期にかけて関東地方から中部地方で取り入れられていました。
 
     
  田園調布の家【W7

大正14年(1925年)に当時の鉄道省(その後の運輸省で現在の国交省にあたります。)の土木技師であった大川氏の自宅として当時としては珍しい全室洋間で建てられたものです。
 
     
  左から
 
奉造立庚申供養堂【❾】
元禄9年(1696年)に建立された三猿庚申堂で台東区浅草にあった旧総泉寺の墓地から出土
 
奉供養庚申塔【❿】
元禄13年(1700年)に建立された三猿庚申塔で、こちらも旧総泉寺の墓地から出土
 
庚申供養塔【⓫】
こちらも三猿庚申塔ですが、由来等は不明です。
 
   
  左から

馬頭観世音【⓬】
由来は不明ですが右側には安政4年(1857年)と彫られています。

石橋三ヶ所供養塔【⓭】
石橋供養塔は木橋を石橋に架け替えた時や、新たに石橋を架けたときなどに記念碑として造立されるもので、造った橋が長持ちするよう祈願するとともに、「道しるべ」としての役目を兼ねるものもあったようです。

奉納百番観世音【⓮】
百番供養塔とは江戸時代に、西国三十三ヶ所・坂東三十三ヶ所・秩父三十四ヶ所を巡礼してきた人達が満願を記念して建立したものといわれ、自分の記念だけでなく、その功徳を他の人に施すこともあったようです。
 
   
  旧自証院霊屋【C2

尾張藩2代藩主徳川光友の正室(奥方)千代姫が、慶安5年(1652年)に前年に亡くなった生母である徳川3代将軍徳川家光の側室のお振りの方を供養するため、富久町にある圓融寺自證院に建立した霊廟です。
 
     
  石樋と石枡(下の写真)【⓰】

江戸時代、玉川上水や神田上水から江戸の町には開渠の堀で水が流れ、武家地や町人地に給水していました。江戸の町中では給水を行うために樋と枡を使っていましたが、樋で流れてくる水には砂や泥も混じっているため、石枡で除去する役目を持たせ、また、水量調節なども行っていました。
 
 
     
高橋是清邸【C3


幕末の嘉永7年(1854年)に生まれ仙台藩の足軽高橋覚治の養子となった高橋是清は、明治6年(1873年)に文部省に入省、農商務省(現 経産省と農務省)の官僚として活躍、農商務省の外局である特許局の初代局長に就任して日本の特許制度を確立。その後日銀副総裁を経て明治38年(1911年)に貴族院議員に勅選(勅選とは天皇が「才識と名望とあるもの」をみずから選ぶこと)され日銀総裁に就任。大正10年(1921年)には暗殺された原敬の後を受けて総理大臣に就任するも閣内不統一もあって1年半で退任し、何度か大蔵大臣に就任、昭和2年に発生した昭和金融恐慌。
6度目の大蔵大臣就任後の昭和11年(1936年)の2月26日早朝、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて蜂起した陸軍将校らによる二・二六事件で、陸軍将校により当時赤坂にあった自宅を襲われて、寝室のある二階にて拳銃で撃たれ暗殺されました。高橋是清82歳の時です。
家は明治35年(1902年)に総栂造りで建てられたもので、死後故人の遺志により当時の東京市に寄付され、2000坪あった敷地は「高橋是清翁記念公園」として昭和16年(1941年)一般公開され、建屋は多磨霊園に移築されて休憩所「仁翁閣」として使われ、平成5年に江戸東京たてもの園開園の時に移築され一般公開ることとなりました。
   
     
   是清邸に入ってすぐのところには事件当時を知ることができる資料が展示されています。
右の写真は高橋是清が使用していた日めくりカレンダーで事件当日の日付のまま残されています。
  
 
   
   
暗殺現場となった是清邸の二階は10畳の寝室(左)と8畳の書斎(右)となっており、ここで是清は6発の銃弾を受けたのちに日本刀で切り付けられ即死しました。  
     
   
二階の廊下(左)と是清邸全景(右)(窓の硝子は明治時代の口吹き硝子が使われており、表面が波打っています。)  
        
西川家別邸【C4

多摩地域屈指の製紙会社を設立した実業家の西川伊佐衛門が大正11年(1922年)に昭島市中神に隠居所兼接客用に建てたものです。
   
        
会水庵【C6

大正時代に宗徧流の茶人山岸宗住(号は会水)が新潟県長岡市に建てたものを、昭和2年(1927年)に武蔵野市吉祥寺に移転した際に移築。更に、昭和32年(1957年)に劇作家の宇野信夫が買い取って杉並区西荻窪に移築したものです。
   
     
万世橋交番【E8

正式名称は「須田町派出所」といい、万世橋のたもとに建てられていました。建築年代は不明ですが、デザインや建築様式から明治時代に建てられたものと推測されています。
移設はこのままトレーラーに載せて行ったとのこと。
     
        
  上野消防署(旧下谷消防署)望楼上部【㉖】

旧下谷消防署は明治14年(1881年)日本で初めての消防署として6署が創設された際にそのうちのひとつとして「第5分署」として誕生。大正14年(1925年)に「下谷消防署」に改称しした歴史ある消防署で、この望楼は大正14年(1925年)に火の見櫓の近代版として造られたもので、望楼全体の高さは約23.6mありました。
展示しているのは望楼の最上部の部分ですが、昭和45年(1970年)まで利用され、その後昭和52年(1977年)に解体保存され、登園開園時に組み立てられ展示されたものです。
  村上精華堂【E11

昭和3年(1928年)に台東区池之端の不忍通りに面したところに建てられた小間物屋(化粧品屋)の建物で、正面は人造石を用いた洗い出し加工を施してあり、イオニア式の柱が特徴となっています。
 
 
     
  7500形都電【㉘】
昭和37年(1962年)に製造され、渋谷駅から新橋・浜町仲ノ橋(9系統)まで走っていました。
都電は地下鉄の整備や都心の交通量増大とともに昭和47年(1972年)から順次廃線となり、現在では荒川線(早稲田・三ノ輪橋間)が走っているだけです。
そういえば昭和40年代前半に当寺晴海で開かれていた展示会に行く際に都電に乗車、晴海通りで交通ラッシュのためノロノロ運転となり、歩いている人に追い越されたのを思い出します。
 
     
 

丸二商店【E10
千代田区神田神保町に昭和初期に建てられた金物屋で、建物の正面は小さな銅片板を組み合わせて模様をつけています。

 
     
  右から

花市生花店【E7
千代田区神田淡路町に昭和2年(1927)年に建てられた花屋で、木造建築ですが、建物正面は看板建築という技法で飾っています。

武居三省堂【E6
昭和2年(1927年)に千代田区神田須田町に建てられた文具店ですが、店舗の開業は明治初期で当初は書道用品の卸をしていました。その名残りか二階と三階の間には「筆墨硯文具卸問屋」とあります。この建物も花市生花店同様に看板建築となっています。

左端の蔵は一階が休憩所、二階がうどん店となっています。
 
     
  左から

川野商店【E12
江戸川区南小岩に大正15年(1926年)に建てられた和傘問屋の建物です。

小寺醤油店【E2
港区白金に昭和8年に建てられた醤油、味噌、酒類のお店で、庇の下の椀木とその上の桁が特徴の出桁造りとなっています。
 
     
   
子宝湯【E4】は、懐かしい姿のお風呂屋さん、足立区千住元町に昭和4年(1929年)に建てられたもので、入り口や脱衣場そして湯船の奥の壁の絵に昭和のにおいが感じられます。  
     
  鍵屋【E3

江戸時代末期の安政3年(1856年)に台東区下谷の言問い通りにあった居酒屋さん、関東大震災そして東京大空襲の被害を受けずに残っており、夜ともなれば赤ちょうちんが下がり、のれんからちょんまげ姿の若い衆でも出てくるような雰囲気がします。
 
     
天明家【E1

江戸時代に鵜ノ木村(現 大田区鵜の木)で名主役を務めた天明家の建物で、長屋門、千鳥破風のある主屋と江戸時代後期の姿がそのまま残っています。
   
     
   
     
   
     
伊達家の門【C5

旧宇和島藩伊達家が江戸時代に下屋敷があったところに、総欅造りで建てた屋敷の表門で港区白金にあったもので、片番所の屋根は起り屋根ととなっています。 門柱の上にある冠木には伊達家の家紋である『竹輪笹に阿吽の向かい雀』の宇和島紋が彫られています。
 
   
   
     
 
 
     
     
     
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