ベルリン ドイツ最大の都市ベルリン、第2次世界大戦後の冷戦時代にはベルリンの壁によって東西が分断されていましたが、1989年11月10日に破壊され、翌年10月に東西ドイツが統一。以後再開発が進み、ビジネス、商業はもちろん観光面でもドイツのトップをゆく町となりました。 |
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連邦首相府 |
連邦議会 | |||||||||||||||||
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チェックポイント・チャーリー チェックポイント・チャーリーは分断されていたベルリンに1945年から1990年まであった国境検問所で、ベルリン市内のほぼ中央部にありました。西ドイツ・西ベルリンの一般市民はほかの検問所を通っていましたが、西側連合国軍関係者は他の検問所を通行することは認められておらず、外国人および外交官、西側連合国軍の関係者が徒歩または自動車で通行するための検問所とされていました。 ベルリンの壁崩壊後は問所自体が廃止され撤去されましたが、木造の小屋が再建され、ベルリンの観光名所のひとつになっています。 チャーリーは人の名前ではなく日本語でいうならば単に「検問所C」のような意味合いです。 |
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分断当時のチェックポイント・チャーリーの様子を写した写真 手前が西ベルリン、奥が東ベルリン側です。 |
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ゲシュタポ本部跡(トポグラフィー・オブ・テラー) 写真中央がベルリンの壁跡で、その左側にゲシュタポの本部がありました。 現在はミュージアムとなっていて、当時の写真などが展示されています。 |
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イーストサイドギャラリー ベルリンの壁跡を使用した路上のギャラリーで、シュプレー川沿いに現存する最長のベルリンの壁です。壁の長さは約1.3kmあり、20ヶ国以上約120名のアーティストによって描かれた作品を見ることができます。当然無料です。中でも特に有名なのが右の写真、旧ソ連のブレジネフ書記長と旧東ドイツのホーネッカー書記長のキスシーンです。 |
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博物館島 博物館島はシュプレー川の中州にあり、1830年に旧博物館が建てられ、その後1841年にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が付近一帯を『芸術と科学』に関する地域としたことから、その後も博物館が建設されたもので、「ベルリンのムゼウムスインゼル(博物館島)」として1999年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。 この島には旧博物館、新博物館、旧国立美術館、ボーデ博物館そしてペルガモン博物館の5つの博物館があります。 |
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旧博物館 博物館島の中で一番古く、アテネの古代建築がモデルで、古代ギリシアの建築、彫刻様式を手本にした新古典主義様式で1830年に建てられ、1845年までは王立博物館と呼ばれていました。現在の建物は1966年に再建されたもので、アンティーク・コレクションを専門に収蔵しています。 |
旧国立美術館 1861年に開館した美術館で、第2次世界大戦の空襲の被害を受け1969年まで修復が行われていました。古典主義、ドイツロマン主義、フランス印象派や現代作家の美術品を収蔵しており、19世紀の彫刻、絵画の収集数ではドイツ有数の美術館です。 |
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新博物館 旧博物館が手狭となったため、1855年に建てられた2番目の博物館で、第2次世界大戦で深刻な被害を受け、外壁しか残されていない部分があるなど酷い状態となり、長い間閉鎖状態゛てしたが、2009年7月に70年ぶりに再開しています。収蔵物は先史から有史初期のものが多く古代エジプトの王妃ネフェルティティの胸像が有名とのことです。 |
ボーデ博物館 1904年に開館した博物館で、彫刻コレクションが多く収蔵されています。 |
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ペルガモン博物館 博物館島の中では最も新しく1930年の開館で、館名の由来となっている「ペルガモンの大祭壇」をはじめギリシャ、ローマ、中近東、イスラムの美術品が収蔵されています。建物は現在修理が行われていて入館は裏口からとなりました。博物館島の中で最も人気のあるところのようで、訪れる観光客が多く、「ゼウスの大祭壇」は祭壇の階段に腰掛ける人が多く写真を撮っても顔ばかり写って使えません。館内で写真を撮るのに一苦労です。 |
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フランス大聖堂 ジャンダルメンマルクトと名付けられた広場にあるフランス大聖堂は「フランスドーム」とも呼ばれ18世紀のはじめにフランスからベルリンに亡命したユグノー派のために建てられたもので、第2次世界大戦で激しく損壊しましたが1987年に修復されました。 |
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コンツェルトハウス 19世紀のはじめに新古典主義を代表する建築家カール・フリードリヒ・シンケルによって、ギリシャ神殿を上下左右に組合せ、正面のポルティコはイオニア式円柱を設けて演劇場として建てられまし。第2次世界大戦で破壊されましたが1984年に再建されコンサートホールとして利用されることとなりました。 |
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ノイエ・ヴァッヘ 「新衛兵所」、あるいは「新哨舎」と訳されるこの建物は、1816年にプロイセン国王のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が、建築家カール・フリードリヒ・シンケルに衛兵所として設計させたものです。 ヴィルヘルム3世はここで行われる衛兵交代式を王宮から楽しんでいたとのことですが、1918年にドイツ帝国が崩壊したのちの1931年に、州政府が戦没者慰霊の場に改造し、以後プロイセン州立戦没者追悼所となっていました。 第2次世界大戦後の東ドイツ時代は衛兵交代式の場として用いられましたが、ドイツ統一後の1993年に、ドイツ連邦政府は11月の第3日曜日を「国民哀悼の日」と定め、戦没者を追悼、遺族に対する連帯を示す日として、ノイエ・ヴァッヘを「戦争と暴力支配の犠牲者のための国立中央追悼施設」に改装して今日に至っています。 |
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赤の市庁舎 アレクサンダー広場そばに建つこの赤い建物、市長とベルリン市の行政組織の本拠地で、赤い硬質煉瓦を用いて、ルネサンス様式でポーランドのトルンの旧市庁舎をモデルに1869年に建てられたものです。 ベルリン大空襲で大きく破壊されましたが、1956年に再建されています。 |
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天井のモザイク画 |
床のモザイク画 |
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こちらは隣に建てられた新しい教会、とても教会とは思えないモダニズム建築です。(右は教会内部)因みに旧教会は「虫歯」、新教会は「リップスティック」とあだ名されています。 | ||||||||||||||||||
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