青森街歩き(2020.09.03撮影) |
||||||||||||||||||||||||||||
青森の街歩きは青森駅付近に見どころがあるのであまり交通機関を利用せずに済みそうです。 とはいっても三内丸山遺跡は、駅から結構離れているので、シャトルバスのねぶたん号(下の写真)を利用したほうが、効率的に動くことができます。 |
||||||||||||||||||||||||||||
ねぶたん号は、三内丸山遺跡、県立美術館、津軽海峡フェリーターミナル、アスパムなどを回るルートで1日10便運航されており、1回乗車は大人300円ですが、2回以上乗ることがわかっていたら1日券(700円)を買うのがお得です。 |
||||||||||||||||||||||||||||
旅に出る前に自宅で情報誌を見ていたら、「のっけ丼」という食べ物があると書かれており、初めて聞く言葉だったのでお店をのぞいてみることに。ここ青森魚菜センターというところで、その食べ物が食べられるとのこと。 |
||||||||||||||||||||||||||||
ここのシステムは、入り口で食事券(1枚150円)を買って、御飯の他に自分が食べたい具材をチョイスしながらのっけて食べるシステムです。 |
||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||
ねぶたの家ワ・ラッセ 文化交流施設として平成23年(2011年)に設けられたもので、中型、大型のねぶたが展示されており、ねぶたの歴史を学んだりお囃子の練習、ねぶたの体験制作ができるようになっています。 下の写真は、アスパムで撮影したたものです。 |
||||||||||||||||||||||||||||
青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸と巡視船おいらせ 「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」は昭和63年(1988年)に開通した青函トンネルにより就航の役目を終えた八甲田丸を、海の街青森の記念碑とすべく往時の姿を残し、向かい城博物館として利用すべく平成2年に開館したものです。 船としては、全長132m、総トン数8,313.75トンあり、最大貨車48両を積載することができた船で、昭和39年(1964年)に竣工して以来、青函連絡船として最長の23年7か月運行されていました。 |
||||||||||||||||||||||||||||
青森ベイブリッジと青森ラブリッジ 青森ベイブリッジは、青森港への貨物運搬の渋滞緩和を図るため平成6年(1994年)に設けられた片側2車線の道路で、全長は1,219mあり、歩行者が通れるようにもなっおり、展望台も設けられています。(生憎と訪れたこの日は上に上がることができませんでした。) 青森ラブリッジは、歩行者専用の橋で、海を見ながら愛を語ることからこの名がついたもいわれており、メモリアルシップ八甲田丸と青い海公園をつなぐ形で設けられています。 |
||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||
青森桟橋記念碑と可動橋跡 |
||||||||||||||||||||||||||||
八甲田丸と津軽海峡冬景色歌謡碑 竜飛崎でも見かけた石川さゆりが歌ってヒットした津軽海峡冬景色の歌謡碑が、八甲田丸前広場にありました。 |
||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||
以下の写真は2021.10.14に撮影したものです。 前回訪れたときに撮影できなかったものを中心に街歩きしてみました。 |
||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||
青森ベイブリッジと奥には青函連絡船八甲田丸 |
||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||
伊能忠敬止宿の地 幕府の命を受けて蝦夷地(現:北海道)の測量にあたるべく、寛政12年(1800年)に大町にある西沢善兵衛宅に止宿したところです。 (所在地:青森市本町5丁目) |
||||||||||||||||||||||||||||
寺山修司旧宅跡 劇作家の寺山修司は、昭和10年(1935年)に青森県三沢市で生まれ、中学時代から俳句にのめりこみ、高校時代には全国学生俳句会議を結成、俳句雑誌『牧羊神』を創刊、編集と発行を続けていました。 早稲田大学教育学部に進んでからは短歌の道に進み、短歌研究新人賞、短歌研究五十首詠を受賞するほどでした。大学は腎疾患により長期入院を余儀なくされ1年で中退し、生活保護受けて暮らすほどとなっていました。 その後アングラ演劇の「天井桟敷」を結成し小劇場ブームの火付け役となったりもしています。 (所在地:青森市青柳2丁目) 碑は経年変化でエッチング加工された文章が薄くなり殆ど読めなくなっています。街歩きをすると、各地でいろいろな記念碑を見つけますけど、設置後のメンテナンスが行われずこのような状態になっているものが多く、残念でなりません。 といっても私のように古いものを探して見て回る人は多くないから町の方もメンテナンスとないんでしょうね・・・・ |
||||||||||||||||||||||||||||
澤田教一が幼少時代を過ごした地 昭和11年(1936年)市内に生まれた澤田教一は、中学時代に新聞配達のアルバイトで得たお金で600円のボックスカメラを買ったのが写真との出会いであったとあります。(私も小学校時代懸賞で当たった小型カメラがきっかけで知写真を続けることとなりました。) 高校卒業後三沢米軍基地内の写真店に勤めたことから写真の勉強を始め、上京してUPI通信社に入社。 東京支局からサイゴン支局に移動し、当時激しさを増していたベトナム戦争の取材を行い、銃弾を避けながら逃避を続ける母子『安全への逃避』の写真を撮影。その後も『敵を連れて『敵を連れて』、『泥まみれの死』などを撮影し、「ピューリッツアー賞」、「世界報道写真大賞」、など多くの賞を受賞し、「サムライ・フォトグラファー」とも呼ばれていました。 昭和45年(1970年)取材のためプノンペンから取材に出かけた時に何者かに襲撃され34歳で亡くなりました。 (所在地:青森市本町2丁目6) |
||||||||||||||||||||||||||||
太宰治 学生時代の下宿地 大正12年(1923年)に、北津軽郡金木村(現:金木町)に生まれた太宰治(本名津島修治)が、県立青森中学校(現:県立青森高等学校)に入学した際に実家を離れて下宿していた地です。ここでの生活は成績優秀な生徒で、4年修了時に学年148名中4番目の成績を修めていたとのことです。 (所在地:青森市本町1丁目1) |
||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||
トップページに戻る | ||||||||||||||||||||||||||||
|