青森街歩き(2020.09.03撮影)
 
 
   
  青森の街歩きは青森駅付近に見どころがあるのであまり交通機関を利用せずに済みそうです。
とはいっても三内丸山遺跡は、駅から結構離れているので、シャトルバスのねぶたん号(下の写真)を利用したほうが、効率的に動くことができます。
 
 
   
  ねぶたん号は、三内丸山遺跡、県立美術館、津軽海峡フェリーターミナル、アスパムなどを回るルートで1日10便運航されており、1回乗車は大人300円ですが、2回以上乗ることがわかっていたら1日券(700円)を買うのがお得です。
 
 
   
  旅に出る前に自宅で情報誌を見ていたら、「のっけ丼」という食べ物があると書かれており、初めて聞く言葉だったのでお店をのぞいてみることに。ここ青森魚菜センターというところで、その食べ物が食べられるとのこと。
 
 
   
  ここのシステムは、入り口で食事券(1枚150円)を買って、御飯の他に自分が食べたい具材をチョイスしながらのっけて食べるシステムです。
 
 
   
     
 


青い森公園

市内の中心部、かつて県立中央病院があったところに平成6年に設けられた公園で、県庁舎の南側にあります。
公園は「憩いの広場」、「花の広場」、「ふるさとの森」、「草はらの広場」、「ふれあいの広場」となっており、散策しながら自然を楽しむことができるようになっています。
 
    
 
 
  
「国道の碑」と「道路標石」
公園の南側は日本橋を起点とする国道4号線が通っていますが、ちょうどここが4号線の終点となり、これより西が国道7号線となり、新潟市に至ります。
 
 
善知鳥(うとう)神社
青い森公園から北に400mほど離れたところにあるこの神社、「善知鳥」と書いて「ウトウ」と読みますが、「ウトウ」はウミスズメ科の海鳥のことで、北日本から北太平洋に生息する鳩よりも少し大きい鳥です。
神社は5世紀の前半頃に都から移り住んだ烏頭中納言安方が宗像三神を祀ったのが神社の起こりと伝わる古い神社です。
境内には松尾芭蕉の読んだ「名月や鶴脛高き遠干潟」の句がありますが、芭蕉がたどったおくの細道は、平泉から山寺そして酒田と回っており、ここ青森まで来ていないようですけど、何か訳があるのでしょうか。
 
 
 



奥州街道終点の地碑

江戸時代に設けられた五街道の一つである「奥州街道」、正式には「奥州道中」といい、日本橋を起点として白河宿までの27宿が奥州街道でした。
白河以北から青森までは、奥州奥道中とも呼ばれていたようです。
いずれにせよ日本橋から青森までの距離はむ約700km、宿場の数は109宿あって、五街道中最長の街道でした。

 
     
 

棟方志功出生の地碑

棟方志功は、善知鳥神社のそばにある市内大町(現在の安方2丁目)で、鍛冶職の親のもとに明治36年(1903年)iに生まれ、子供のころから絵に興味を持地、17歳の時にゴッホの絵と出会い画家になることを決意し、大正13年(1924年)に上京。
上京後の昭和3年(1928年)に制作した「雑園」が第9回帝展に入選。その後「善知鳥」で昭和13年(1938年)に帝展特選し、以後独自多くの作品を発表。昭和50年(1975年)に72歳で亡くなりました。
 
 


聖徳公園

浜町埠頭に面して設けられているこの公園は、明治天皇が視察の際訪れたのを記念して昭和5年(1930年)に設けられたものです。


「景仰聖徳」の碑

碑には「明治十四年八月二十九日此埠頭ヨリ扶桑艦ニ乗御同九月七日函館ヨリ迅鯨艦ニテ着御御上陸在ラセラレ」と刻まれています。

 
      


「海の記念日」発祥の地碑

明治9年(1876年)に、明治天皇が北海道と東北地方を巡幸した際に、7月16日にここ青森港から灯台視察船明治丸を利用して函館を経由して航海され、横浜港に着いたのが7月20日でした。
この横浜に着いた日を、昭和16年(1941年)に「海の記念日」として定めていました。現在の「海の日」の前身です。
 
 


大町桂月の文学碑

高知県生まれの詩人であり歌人であった大町桂月は、 青森県の奥入瀬や十和田湖を愛し、晩年は県内にある蔦温泉に居住して本籍地も同値に転籍するほどでしたが、多大正14年の6月に57歳で胃潰瘍で亡くなっています。
碑には右側に、「大町の 桂の井戸の 水を清み さやかにやどる 秋の夜の月」と刻まれており、左側には紀行文「陸奥の海岸線」の一説が刻まれています。
 
 


青森歴史街道の図碑

安政の大獄で非業の死を遂げた吉田松陰が、嘉永5年(1852年)に脱藩してまで訪れた東北地方の足跡を基に、津軽南部の文化財等を図示化した碑です。
 
 
 
 
 
青森県観光物産館アスパム
昭和61年(1986年)に県の観光と物産を紹介するため建てられたもので、「青森」の頭文字である「A」をイメージする三角形の外観が特徴となっており、地上18階建てで青森市のランドマークとなってます。
左は青い海公園側から撮影、右は旭町通り側から撮影
 
 
 
 

赤い絲(いと)モニュメント

タイトルが「ふたり」と名付けられたこのモニュメントは、青森市と函館市のツインシティ(双子都市)提携20周年を記念して、平成21年(2009年)に制作されたもので、青森で旧制中学時代を過ごした太宰治の小説「思ひ出」の中での挿話を基に設けられたものです。ツインシティでの設置ですので函館市の緑の島にも同じ像が設けられています。
二人の足首には赤いリボンやひもが巻き付けられています。


※ツインシティとは、地理的に近接した二つの都市が、双方の都市の成長で、一体的な都市圏を形成するに至ったことをいい、ここ青森と函館だけでなく、水戸市とひたちなか市、京都市と大津市、岡山市と倉敷市など多くの都市がツインシティとなっており、発展して合併し、単一の都市となった例も数多くあります。
 
 
 
   
  ねぶたの家ワ・ラッセ
文化交流施設として平成23年(2011年)に設けられたもので、中型、大型のねぶたが展示されており、ねぶたの歴史を学んだりお囃子の練習、ねぶたの体験制作ができるようになっています。
下の写真は、アスパムで撮影したたものです。
 
 
 
 
 
 
  
 
  青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸と巡視船おいらせ
「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」は昭和63年(1988年)に開通した青函トンネルにより就航の役目を終えた八甲田丸を、海の街青森の記念碑とすべく往時の姿を残し、向かい城博物館として利用すべく平成2年に開館したものです。
船としては、全長132m、総トン数8,313.75トンあり、最大貨車48両を積載することができた船で、昭和39年(1964年)に竣工して以来、青函連絡船として最長の23年7か月運行されていました。
 
 
   
  青森ベイブリッジと青森ラブリッジ
青森ベイブリッジは、青森港への貨物運搬の渋滞緩和を図るため平成6年(1994年)に設けられた片側2車線の道路で、全長は1,219mあり、歩行者が通れるようにもなっおり、展望台も設けられています。(生憎と訪れたこの日は上に上がることができませんでした。)
青森ラブリッジは、歩行者専用の橋で、海を見ながら愛を語ることからこの名がついたもいわれており、メモリアルシップ八甲田丸と青い海公園をつなぐ形で設けられています。
 
 
 


青函連絡船戦災の碑

第二次世界大戦の末期、昭和20年(1945年)7月14日に米軍機の爆撃により、青函連絡船「翔鳳丸」、「飛鸞丸」、「第二青函丸」、「第六青函丸」が、そして8月10日には「亜庭丸」がいずれも青森湾で撃沈され、乗員乗客併せて1,313名の犠牲者を出しました。この中には船員養成所の訓練生14名も含まれていました。
また、津軽海峡と函館湾でも同様の爆撃を受けて当時就航していた青函連絡船は全滅するに至りました。
現在でも津軽海峡には「津軽丸」、「第三青函丸」、「第四青函丸」の3隻が乗員乗客とともに眠りについています。
 
     
 
   
  青森桟橋記念碑と可動橋跡
 
   
     
   
  八甲田丸と津軽海峡冬景色歌謡碑
竜飛崎でも見かけた石川さゆりが歌ってヒットした津軽海峡冬景色の歌謡碑が、八甲田丸前広場にありました。
 
     
 
青森市のマップ 
 
     
  以下の写真は2021.10.14に撮影したものです。
前回訪れたときに撮影できなかったものを中心に街歩きしてみました。

 
 
 
 


まずは前回外観だけ撮影した「ねぶたの家ワ・ラッセ」に。

『ねぶた』は、毎年8月の旧暦7月7日の七夕行事の一つとして行われる夏祭りで、青森県内の各地で行われており、地域によって「ねぶた」、「ねぷた」または「佞武多」と表されています。
ワ・ラッセは、青森の観光拠点とするべく平成23年(2011年)に開館したもので、ねぶたの歴史を知るためのコーナーや交流学習室としてねぶたの製作体験ができたりお囃子を習うこともできるほかに、中・大型のねぶたが展示されています。

コロナ騒ぎの影響で、ねぶた祭りも2年続けて中止となっており、町の人たちは早く再開できないかと待ち望んでいるのではないでしょうか。
 
 
 
   
     
   
     
   
     
 
青森ベイブリッジと奥には青函連絡船八甲田丸
 
 
 
  
さすがリンゴの名産地青森、街路樹にもリンゴの木があります。左はヒメリンゴ、右はアルプスオトメ
 
 
 
 



伊能忠敬止宿の地

幕府の命を受けて蝦夷地(現:北海道)の測量にあたるべく、寛政12年(1800年)に大町にある西沢善兵衛宅に止宿したところです。

(所在地:青森市本町5丁目)
 
 
 
   


寺山修司旧宅跡

劇作家の寺山修司は、昭和10年(1935年)に青森県三沢市で生まれ、中学時代から俳句にのめりこみ、高校時代には全国学生俳句会議を結成、俳句雑誌『牧羊神』を創刊、編集と発行を続けていました。
早稲田大学教育学部に進んでからは短歌の道に進み、短歌研究新人賞、短歌研究五十首詠を受賞するほどでした。大学は腎疾患により長期入院を余儀なくされ1年で中退し、生活保護受けて暮らすほどとなっていました。
その後アングラ演劇の「天井桟敷」を結成し小劇場ブームの火付け役となったりもしています。

(所在地:青森市青柳2丁目)

碑は経年変化でエッチング加工された文章が薄くなり殆ど読めなくなっています。街歩きをすると、各地でいろいろな記念碑を見つけますけど、設置後のメンテナンスが行われずこのような状態になっているものが多く、残念でなりません。
といっても私のように古いものを探して見て回る人は多くないから町の方もメンテナンスとないんでしょうね・・・・
 
   


澤田教一が幼少時代を過ごした地

昭和11年(1936年)市内に生まれた澤田教一は、中学時代に新聞配達のアルバイトで得たお金で600円のボックスカメラを買ったのが写真との出会いであったとあります。(私も小学校時代懸賞で当たった小型カメラがきっかけで知写真を続けることとなりました。)
高校卒業後三沢米軍基地内の写真店に勤めたことから写真の勉強を始め、上京してUPI通信社に入社。
東京支局からサイゴン支局に移動し、当時激しさを増していたベトナム戦争の取材を行い、銃弾を避けながら逃避を続ける母子『安全への逃避』の写真を撮影。その後も『敵を連れて『敵を連れて』、『泥まみれの死』などを撮影し、「ピューリッツアー賞」、「世界報道写真大賞」、など多くの賞を受賞し、「サムライ・フォトグラファー」とも呼ばれていました。
昭和45年(1970年)取材のためプノンペンから取材に出かけた時に何者かに襲撃され34歳で亡くなりました。

(所在地:青森市本町2丁目6)
 
         
   


太宰治 学生時代の下宿地
大正12年(1923年)に、北津軽郡金木村(現:金木町)に生まれた太宰治(本名津島修治)が、県立青森中学校(現:県立青森高等学校)に入学した際に実家を離れて下宿していた地です。ここでの生活は成績優秀な生徒で、4年修了時に学年148名中4番目の成績を修めていたとのことです。

(所在地:青森市本町1丁目1)
 
     
  
 
     
     
      トップページに戻る