横手城と久保田城
 
 
横手城
    
秋田県横手市にあった横手城、朝倉城、阿櫻城とも呼ばれ、また、土砂崩れの防止と斜面に敵兵が滑ってよじ登れないようにするために韮(ニラ)を植えたため、韮城とも呼ばれていました。
城の築城の時期は明らかでなく、足利幕府時代の天文年間、1550年頃に、当時秋田県南部に勢力を誇っていた小野寺氏によって築かれたのではと伝えられています。
小野寺氏は関ヶ原の戦いで西軍方に与したとみなされて改易となり、久保田城(秋田市)ともに佐竹氏の所有となり、以後幕末まで佐竹氏一門の所領となりました。
横手城は、「宇都宮吊天井事件」で宇都宮より流罪となった本多上野介正純が亡くなるまで幽閉された場所であり、幕末の戊辰戦争の際には官軍側についたため仙台藩と庄内藩の軍勢の攻撃を受け、明治元年8月11日(1868年9月26日)に落城しています。
横手城には天守が築かれていませんでしたが、現在あるのは昭和40(1965)年に郷土資料館と展望台を兼ねて二の丸跡に岡崎城をモデルにして築かれた模擬天守です。

横手城址一帯は横手公園として整備されており、日本の歴史公園100選に選定されています。
     
   
     
   
 
二の丸跡と二の丸跡より見る模擬天守  
   

土塀にある蔦紅葉
 
天守より望む横手市街、中央を流れるのは横手川
 
     

公園内にある牛沼には太鼓橋が架けられており、ちょうど紅葉が見頃となっていました。
 
    
 久保田城  
秋田市にある久保田城は、矢留城、葛根城とも呼ばれ、久保田藩佐竹氏20万石の居城で、神明山と呼ばれる小高い丘(標高40m)に、慶長9(1604)年に佐竹義宣によって築かれたもので、鉢巻土手という基底部にわずかに石垣を施し、土手をその上に構築するという佐竹氏独特の工法で築城されました。
城は天守を持っておらず「出し御書院」と呼ばれる櫓座敷がその代わりとなり、周囲に8棟の櫓が設けられていましたが、明治13(1880)年に発生した火災により当時の建造物の殆どが焼失、現在は被害を免れた御物頭御番所、復元された御物頭御番所(御隅櫓)と本丸表門があるだけとなっています。
久保田城は日本100名城に選定されており、城内一帯は「千秋公園」として整備され、日本の歴史公園100選にも選定されています。
 
        

平成元(1989)年に復元された御隅櫓と呼ばれた本丸新兵具隅櫓
 
久保田城俯瞰模型
 
     
   
一の門とも呼ばれていた本丸表門は瓦葺き2階建ての櫓門で、平成13(2001)年に復元されたものです。  
     
  御物頭御番所
久保田城で現存する唯一の遺構で、宝暦8(1758)年から安永7(1778)年の間に建築されたと推定されており、城内二ノ門(長坂門)の開閉と城下の警備、火災消火を担当した物頭(足軽の組頭)の詰所となっていました。
 
     

多聞長屋跡
御隅櫓に至る通路付近に多聞長屋が建てられていましたが、今は何も残っていません。
 
埋門跡
本丸の西側にあった門で、土塁を切り離して造られた隠し門でした。
 
一の門付近より見る本丸跡
 
 
 
 
     

本丸跡に建つ第十二代藩主佐竹義堯公像
 
御鷹屋御番所跡
 
色づく蔦紅葉
 
     

二の丸跡
 
  胡月池
二の丸にある池ですが、千秋公園として整備する際に築庭されたものです。
 
   
  八幡秋田神社
明治11(1878)年に初代藩主佐竹義宣を祀るため市内広小路(千秋公園の南側)に創建されましたが、その後明治32(1899)年に現在の地に移築。九代義和、十二代義堯が合祀されています。
社殿は平成17(2005)年に放火にあい焼失し、平成20(2008)年に再建されたものです。
 
     
  松下門跡(左)と鐘楼(右)
二の丸に続く門でしたが、現在は千秋公園への正面入り口となっています。
鐘楼は城の西南曲輪に建てられ時鍾を鳴らしていました。現在のものは再建のようです。
 
          
  黒門跡
藩政期時代には正式な登城口でしたが、現在は門のあったところに礎石が残されているだけです。
 
 
   
   
毎年8月3日から6日まで開催される秋田竿燈まつりのメイン会場となる竿燈大通り(正式には 山王大通り)と広小路商店街にあったマンホールの蓋  
     
     
     
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