秋葉山古墳群と相模国分寺跡
 
中学校から高校時代にかけて考古学に興味を持ち、考古学同好会に参加して都内各地の発掘にも参加したことのある私は、地図で隣の市である海老名市に、古墳群があることを知り早速出かけてることに
 
 
 



金龍山常泉院

座間市との境に近い海老名市の北部にあるこのお寺は、寺の案内書によると天文19年(1550年)に、文治年間に創建されて廃寺状態となっていた福泉寺を勇安賢存大和尚によって再建された曹洞宗のお寺です。
調べてみると、秋葉山古墳群は常泉院の所有地であるとのことで、住職さんに断りを入れて撮影に向かうことに。
 
 
      
 
本堂
 
     
   
  水子地蔵像

寺院に行くと境内には水子地蔵像をよく見かけますが、ここはちょっと変わった像が設けられています。
左手前には股のぞきしている子供の像があり、奥には葉陰になって見難いですけど手をかざしてのぞき見している子供の像などが置かれています。
もう少し近くで撮りたかったのですが、生け垣などもあり近寄れず、これが精いっぱいでした。
 
 
 

秋葉山古墳群


海老名市にある秋葉山古墳群は、座間丘陵の相模川流域の平野部を望む高台にあります。この場所は海老名市でも最も標高の高いところ(標高75~80m)で、古来より秋葉山とも呼ばれ、相模川流域の水田の風景や丹沢山系なども一望できる景勝地であったことから、この地域を治めていた首長のが墳墓を築いたのでは想定されています。
昭和63年(1988年)から平成15年(2003年)にかけてこの古墳群の発掘調査が行われ、3世紀から4世紀にかけて造営されたことが判明しています。
古墳群は、第一号墳から第六号墳迄確認されていますが、これ以外にも近年の宅地開発等で消滅してしまった古墳もあるようで、隣接する座間市内にも古墳があるのではといわれていますが確認されていません。
この秋葉山古墳群は、千葉県市原市にあった神門古墳群と並んで、東日本で最古級の古墳群の一つであり、南関東の当時の歴史を知る重要な遺跡として、2005年に国の史跡に指定されています。

 
 
 
      
   
  常泉院境内から望む秋葉山古墳群
 
 
   
      
   
  第一号墳
第一号墳は山王山とも呼ばれている墳長59mの前方後円墳で、後円部の径は33mあります。この墳墓は4世紀の前半から中ごろにかけて造営されたと見られており、墳墓からは土器や鉄鏃(てつぞく:鉄製の鏃(やじり))が出土していますが、周濠は設けられておらず前方部の正面に溝があります。
 
 
 
第一号墳の墳頂部
 
 
   
  第二号墳
第二号墳は古墳群の名称である「秋葉山」にあり、墳長は50.5mで後円部の径は第一号墳と同じ大きさで、3世紀末から4゛世紀の初めにかけて造営されたと推定されており、墳墓内からは水銀朱の付着した土器などが出土しています。
 
 
 
第二号墳の墳頂部

 
 
   
  第三号墳
秋葉山古墳群の中では最初の時期である3世紀の後半ごろに造営された前方後円形の古墳で、前方部は昭和30年代に削平されたとのことで現存しておらず、残されている大正時代の記録によると墳長は第二号墳と同じくらいの大きさである51m、後円部は直径が38~40mとやや不整円形で造営され、周濠が設けられていたとなっています。
発掘調査では墳頂部に大きな募孔があることが推定され、ここには水銀朱が付着した土器や壺、埋葬の際に用いたと思われる土器も出土しており、また、弥生時代に相模地方で発達した壺や伊勢湾地域で広まった高坏などもあるとのことです。
 
 
   
  第四号墳(上の写真)と第五号墳(下の写真)
第四号墳と第五号墳は、道路を隔てた上今泉自然公園内にあります。奥には第六号墳もありますが、撮影していません。
第四号墳は住宅と近接しているため、写真も撮り難く、これのみの撮影となっていますが、秋葉山古墳群の中でも最も古い古墳と推測されていて、墳長が37.5mで前方には周濠が確認されています。
第五号墳は、一辺が約20mの方墳(墳丘の平面形が方形になっている古墳)で、4世紀前半に造営されています。
 
   
     
 




相模国分寺跡

小田急線の海老駅から歩いて10分くらいのところにある相模国分寺跡の史跡は、聖武天皇の発眼により奈良時代の8世紀半ばに建立された国分寺の一つで、国の史跡に指定されています。
国分寺は国府のある所に設けられているのが普通ですが、相模国分寺の場合は、国府のある場所が特定されておらず、小田原市の千代廃寺を移転したとの説や、平塚市四之宮にある遺蹟群に置かれていたとの説、当時の寺院建設に携わった壬生氏が高座群を根拠地としていたことから、この地に建立されたとの説もあるようです。
 
    
 
  伽藍配置想像図
  
 
   
  僧寺の寺域は、東西240m、南北300mと推定されており、伽藍には、東側に金堂、西側に塔、北側には講堂が配されており、その周囲を回廊と中門で囲むいわゆる「法隆寺式」という配置となっています。
写真奥の少し高くなっいるところは塔跡です。
 
 
   
  金堂跡
金堂は、土を強く突き固める版築工法という方式で造られた基礎部分である基壇があり、そこにはいくつかの礎石が残されていて金堂の建物が建っていたことがわかります。
 
 
   
   
塔跡
塔が建てられていたところも版築工法で土台が造成されており、基壇(上の写真)はその上に同じく版築工法で一辺20.4m、高さ1.35mの基壇を造成して、そこに重さ数トンにもなる礎石(下の写真)16個を据え付けて、一辺が10.7m、高さ約65mあったと推測される七重塔が建てられていました。
 
 
   
     
   
  中門と回廊の跡
上下に伸びているのが回廊跡で、中央部の少し大きい四角の部分が中門があったところです。
回廊は国分寺の金堂、塔などの主要な建物を囲む形で設けられますが、現在残っているのはこの南側の礎石のある部分で、他の部分は地下に埋め戻されているようです。中門は、東西21m南北11mの基壇の上に建てられていましたが、発掘された遺物から瓦が発見されていることから瓦屋根の構造であったことが判明しています。
 
 
   
  講堂の礎石
金堂の塔の中間に設けられていて、版築工法で造られた基壇の上に礎石を置いて建物が建てられていました。現在は12個の礎石が残されています。
 
 
   
  僧房跡
講堂の北側に建てられた僧房は、東西に8部屋が設けられていたことが判明しています。また、僧房の北奥には国分寺の維持管理を担っていたと思われる建物跡があります。
 
 
 
 



七重の塔のモニュメント

海老名駅からすぐのところにある海老名中央公園の一角に相模国分寺の七重の塔のモニュメントがあります。
創建当時の七重の塔は、国分寺跡に残存する礎石から広さが10.8m四方あり、高崎約65mあったと推測されています。このモニュメントは実物の約3分の一で造られています。
     




国分尼寺跡

相模国分寺跡かに北に600mほど離れたところに国分尼寺跡があります。
こちらも平成9年に国の史跡として指定されていますが、講堂の基壇や礎石は残されておらず、わずかに金堂跡の基壇と礎石が残されているだけとなっています。
 
 
     
   
     
     
     
       トップページに戻る