世界文化遺産唐招提寺と薬師寺(2019.04.15撮影)

高校時代の修学旅行以来約60年ぶりに訪れた奈良、大和郡山から唐招提寺と薬師寺へと回ります。
近鉄橿原線の西ノ京駅を降りるとすぐそばに薬師寺がありますが、先に唐招提寺を見て回ることとします。

 
 




唐招提寺

唐招提寺は、若い人は読まないかもしれませんが、昭和の半ばに発表された、井上靖の小説『天平の甍』で知られ、唐から渡来した鑑真が天平宝字3年(759年)に創建したお寺です。
境内にある奈良時代に建てられた金堂や講堂をはじめとする歴史的建造物や、鑑真の座像ほかの多くの仏像が、国宝や重要文化財に指定されており、「古都奈良の文化財」として世界文化遺産に登録されています。
 
 
      
   
     
   
  南大門
切妻造りで、柱五間の中央に三扉のある南大門は、昭和35年(1960年)に天平様式を模して再建されています。
 
 
 
南大門を入ってすぐ左側の所に世界遺産に登録されていることを示す記念碑があります。
 
     
   
 
国宝に指定されている唐招提寺の金堂は、奈良時代に建てられ現存するものとしては唯一のものであり、正確な建立時期は不明なるも9世紀の初めには建てられるた推定されており、建立後に幾たびかの改修工事が行われています。

(写真は南大門側から撮影)
 
 
 
境内南東側から撮影した金堂
 
 
   
  会津八一の歌碑
金堂の左側には歌人であった会津八一の歌「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」が刻まれた石碑があります。
 
 
   
  醍醐井戸
境内の北側にあるこの井戸は、創建当時に鑑真によって設けられたと伝えられる古い井戸です。
 
   
     
   
  開山堂
開山堂内には御影堂に安置されていて、国宝に指定されていて年に数回だけしか見ることのできない、鑑真和上の座像の身代り像が安置されています。
 
 
   
  御影堂
国宝に指定されている鑑真和上の座像が安置されていて、重要文化財に指定されている御影堂は、廃寺になった興福寺の塔頭の一乗院の遺構を移設したものです。御影堂に入口は入れないようになっており、そこから見ると御影堂はあいにくと修復工事中でした。
 
 
   
  真和上御廟
境内の右奥の杉木立の中にあるのが、天平宝字7年(763年)に亡くなられた鑑真和上の御廟(墓所)です。
 
 
   
  北原白秋の歌碑
開山堂のそばには、北原白秋が鑑真和上を偲んで謳った、「水楢(みずなら)の 柔(やは)き嫩葉(わかば)は み眼にして 花よりもなほや 白う匂はむ」の歌碑があります。
 
 
   
  宝蔵(左)と経蔵(右)
宝蔵と経蔵はいずれも国宝に指定されており、ともに奈良時代に造られた校倉造となっていますが、経蔵は唐招提寺が創建される以前に建てれたものと推定されています。
 
 
 
 



鼓楼
入母屋造りで造られてい手国宝に指定されている鼓楼は、鎌倉時代の仁治元年(1240年)に建てられたもので、鼓楼の名はあるものの太鼓が納められてはおらず、仏舎利を安置していることから「舎利殿」とも呼ばれています。
 
     
   
  礼堂(らいどう)
礼道は僧房として建てられたものを弘安6年(1283年)に改築したもので南北に19間という細長い建物で、重要文化財に指定されており、堂内には重要文化財に指定されている清凉寺式釈迦如来立像と日供舎利塔が安置されています。

 
 
   
  講堂
国宝に指定されている講堂は、天平宝字4年(760年)頃に、平城宮にあった東朝集殿を移築・改造したもので、切妻造りで建てられていたものを移築するにあたって入母屋造りに改造されており、奈良時代宮廷建築の唯一の遺構として極めて貴重な建築物となっています。
 
   
     
 

薬師寺

南都七大寺の一つに数えられる薬師寺、天武天皇9年(680年)に天武天皇によって、藤原京の右京八条三坊の地に開基された歴史あるお寺で、古都奈良の文化財の一つとして世界文化遺産に登録されています。
寺は平城京に遷都されたましたが、和同3年(710年)に現在の地に移転しています。

なお、創建時のお寺は廃寺となっており、橿原市に「本薬師寺(もとやくしじ)」の遺構が残されています。
 
 
 
     
   
     
   
  與楽門
白鳳伽藍への北側の入口となりますが、受付は写真の左側にあります。
 
 
   
  不動堂
不動堂は、白鳳伽藍内北西端にあり、堂中には不動明王像が安置されています。
 
 
   
  金堂の薬師如来坐像の台座の模型
東僧房内にあるこの台座の模型には、ギリシャの葡萄唐草模様、ペルシャ(現在のイラン)の蓮華模様やインドの力神像、中国の四方四神などが刻まれており、創建時代の世界各国の文様が刻まれていて、当時の文化交流を知る貴重なものとされています。
 
 
   
  食堂(じきどう)
食堂は僧侶たちが斎食するための施設で、一度に300人以上の僧侶たちが食事をとれるほどのお大きな建物で、天平2年(730年)に建てられた食堂は、天禄4年(973年)に発生した火災により焼失しており、現在の食堂は平成29年2017年に再建されたものです。

 
 
   
  大講堂
大講堂は、横幅41m、奥行き20mそして高さが14mある伽藍の中で最大の建築物です。創建当初の大講堂は火災により焼失しており、現在の大講堂は平成15年(2003年)に津再建されたもので、堂内には重要文化財に指定されるいる弥勒三尊像が安置されています。
 
 
 
 
東搭(左)と西塔(右)
工事用の防護膜で覆われている東塔は天平年間(729~749年)に建てられたもので、昔訪れたとき見たのはこの東塔でした。塔は建てられてから幾度となく修築が行われていましたが、現在は写真のような状態で解体修理が行われており、令和2年(2020年)の6月に昔の姿を見せる予定となっています。
右側の西搭は、足利時代の享禄元年(1528年)に兵火で焼失し、昔訪れたときは「ここに西搭がありました。」といわれただけでしたが、昭和56年(1981年)に、当時の姿を偲ばせる白鳳様式で再建されたものです。

 
 
   
  金堂
昭和51年(1976年)に再建されたもので、二階建てで各階に裳階が設けられており、竜宮造りと呼ばれています。堂内には奈良時代仏教彫刻の最高傑作の1つとされる本尊薬師三尊像が安置されています。
 
 
   
  中門
白鳳伽藍の南側に設けられている中門は、創建当初の門が享禄元年(1582年)の兵火で焼失し、昭和59年(1984年)に再建されたもので東西の回廊とつながる形で造られています。
中門の両側にある二天王像も兵火で焼失したため、平成3年(1991年)の発掘調査をもとに復元されています。甲冑に身を包んだ二天王像は、他のお寺で見かける仁王像とはちょっと変わった色彩です。
 
 
 
 
      
   
  南門
四脚門様式で造られてる南門は室町時代の永正9年(1512年)の建築で、重要文化財に指定されてます。
 
 
   
  佐々木信綱と会津八一の歌碑
左側が、国文学者で歌人であった佐々木信綱の歌碑で、碑には「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」と刻まれており、右側の会津八一の歌碑で、碑には「あまつをとめがころもでの ひまにもすめるあきのそらかな(水煙の天つ乙女が衣手のひまにも澄める秋の空かな)」と刻まれています。
 
 
   
  玄奘三蔵院伽藍
玄奘三蔵院は平成3年(1991年)に建立されたもので、伽藍の名称となっている「玄奘三蔵」は、「西遊記」に出てくる三蔵法師をさしています。相宗のお寺である薬師寺は、玄奘三蔵の弟子であった慈恩大師を開祖としているため、玄奘三蔵の教学を伝えるために建立されたものです。
 
 
   
  玄奘塔
伽藍に入ると中央に玄奘塔があり、玄奘三蔵が祀られていて、中には日本画家の平山郁夫が制作した13枚の壁画、「大唐西域壁画」があります。
 
   
 




平城京

藤原京から和銅3年(710年)に遷都された平城京は、延暦3年(784年)に長岡京に遷都されるまで日本の政治の中心地でした。平城京は東西に4.3km、南北が4.7kmと広大な京域でしたが、現在はその一部が平城京跡として残されてており、平城京跡歴史公園として保存並びに復元工事が行われています。
この平城京跡は、古都奈良の文化財として、日本の考古遺跡で初めて世界文化遺産に登録されています。

右の写真は、明治時代から大正時代にかけて、平城京の保存運動に私財を投じて活動した棚田嘉十郎の銅像です。
 
 
 
   
  一次大極殿
第一次大極殿は、横幅約44m、奥行き約20m、高さが17mあり、使用されている屋根瓦は何と100,000枚近くになるという大きな建物で、当時は天皇の即位式や外国使節との面会に用いられていたとのことで、一時は都となった山城国の恭仁宮(くにきょう)に移設され国分寺の金堂ともなっていました。
現在ある大極殿は、平成22年(2010年)に復元さたものです。
 
 
   
  現在、第一次大極殿の南門の復元工事が行われています。
 
 
 
大局殿の復元予定図(奥中央が大極殿)
 
 
 
奥に朱雀門前が見えるこの区域は中央区朝堂院といい、当時都の中枢となる政庁があったところです。
 
 
   
  朱雀門
朱雀門は、当時12か所あった平城京の大内裏への入口となる門で、ここから南に約4km行くと羅城門橋となっていました。現在の門は、考古学的研究と奈良県下の寺社の門を参考にして五間三戸の二重門で、平成10年(1998年)に復元されたものです。
 
 
     
     
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