嵯峨野散策
 
京都の旅友Sさんの案内で嵯峨野の散策です。
 
  
 
   




広沢池
 
右京区の嵯峨広沢町にある周囲が1.3kmほどのこの池は、「日本三沢」の一つに数えられる池で、別名を遍照寺池ともいい、平安時代の中期の永祚元(989)年に、遍照寺の建立時に庭池として造営されたといわれています。なお、渡来系豪族の秦氏一族が灌漑用の溜池として造営したという説もあるようです。
一時期は遍照寺の衰退とともにさびれていましたが、明治時代に地元の人々により修復が行われ、現在では「ため池百選」に選ばれています。

※ 日本三沢はこの広沢池のほかに奈良県奈良市の猿沢池、大分県宇佐市の初沢池
   
        
  広沢池の西側にある観音島(といっても地続きとなっていますが)には、創建時の遍照寺があった遺構が発見されており、壹美白辨財天社の祠(左)と十一面千手観音石仏(右)があります。  
 
        




蓮華峯寺陵
(れんげぶじのみささぎ)

広沢池から直指庵に行く途中にあるのが、第91代後宇多天皇の陵墓である蓮華峯寺陵です。
陵墓は、後宇多天皇の母である亀山天皇皇后洞院佶子陵、亀山天皇分骨所、後宇多 天皇皇后子内親王分骨所、後二條天皇分骨所となっています。

(所在地:京都市右京区北嵯峨朝原山町)
   
        




直指庵
(じきしあん)
 
寺の山号は祥鳳山といい、正保3(1646)年に独照性円(どくしょうしょうえん)が没蹤(ぼっしょう)庵
を建てたのがはじまりで、独照禅師が黄檗禅の正統さを、「直指伝心」することとしたことが寺の名前となっています。
寺は一時期荒廃し、独照禅師の墓所だけとなりましたが、幕末に近衛家の老女で尊皇攘夷運動家であった津崎村岡局(津崎矩子)が浄土宗のお寺として再興されました。尚、再興時の建物はその後焼失しており、現在の建物は明治33(1899)年に再建されたものです。

直指庵は隠れた紅葉の名所といわれていますが、訪れたときは少し早めでした。また、阿弥陀堂は限定で公開しており、この時期は非公開となっていました。
 
(所在地:右京区北嵯峨北ノ段町3)
   
       
   
 
        
   愛逢い地蔵
 
直指庵は京都の縁結びのパワースポットとか、恋愛成就を願う方は訪れてみてはいかが
       与謝野晶子の歌碑
 
歌碑には「夕ぐれを 花にかくるる 子狐の にこ毛にひびく 北嵯峨の鐘」と刻まれています。
 
        
   開山堂
 
開山堂は、直指庵を開山した独照性円禅師の墓所となっていて、堂内には多宝塔を模した墓石があります。(右の写真)
  
         
  村岡局の墓

勤王の女傑と呼ばれた村岡局は、本名を津崎矩子といい、大覚寺門跡の家臣であった津崎左京の娘として天明6(1786)年に生まれ、近衛家に仕えて中臈を経て老女となり村岡局と名乗る。
公武合体派の公家であった近衛忠煕に仕えて、勤王の志士たちと交流を深め、安政の大獄では江戸に送られて投獄されて押込にあう。その後も尊王攘夷運動の嫌疑を受けて、永謹慎となり直指庵で余生を送り明治6(1873)年に88歳で死去。
右の写真の墓石は村岡局直筆によるもの。
 
 
        
    想い出草観音菩薩像

寺を訪れた人たちが想いを綴る「想い出草」というノートがあるとのことで、現在は5000冊以上ものノートが保存されており、この観音様は願いや想いをくみ取っていただける観音様とのことです、
  
 
 
   
水子地蔵尊堂 
      
大覚寺
 
大覚寺門跡または旧嵯峨御所と呼ばれる大覚寺、正式な名称は、旧嵯峨御所大覚寺門跡といい、平安時代の初期に嵯峨天皇が離宮を営んでいたところで、貞観18(876)年に皇女の正子内親王(淳和天皇の皇后)が寺に改めた、皇室にゆかりのある由緒あるお寺です。
寺は鎌倉時代の徳治3(1308)年に後宇多法皇が伽藍を整備して再興し、ここにおいて院政を行ったことから「嵯峨御所」とも呼ばれていました。
 
(所在地:右京区嵯峨大沢町4)
 
    
 

 
玄関門(表門)   式台玄関   
       
  輿
式台玄関を入ったところにある松の間に置かれているこの輿(こし)は、後宇多法皇の九曜菊紋がああり、法皇が使用したものと寺伝では伝えられていますが、その後復元されたものではという説もあるようです。輿の後ろには狩野永徳筆の「松に山鳥図」の障壁画のレプリカです。
 
       
  宸殿(重要文化財)
 
宸殿とは門跡寺院特有の建物の名前で、「宸」は皇帝の意があるとのこと。
この宸殿は後水尾天皇より、徳川二代将軍秀忠の娘で、同天皇の中宮(天王の妻たちの呼称)となった東福門院和子が使用していた女御御所の宸殿を賜ったもので、内部は四つの部屋に分かれており、それぞれに江戸時代初期の画家の狩野山楽が描いた牡丹の襖絵がある「牡丹の間」、紅梅が描かれた「紅梅の間」、松が描かれた「柳松の間」、鶴が描かれた「鶴の間」となっています。
各部屋にある襖絵は複製で、オリジナルは収蔵庫に収められています。
写真は牡丹が描かれた「牡丹の間」
 
        
  勅使門
 
嘉永年間(1848~54)に再建され宸殿の前にり、切り妻造りの軒唐破風がある四脚門となっています。門の前の庭で咲いているのは日本三大名菊のひとつで、観賞用の菊である嵯峨菊です。
 
        
  正寝殿
 
桃山時代に建てられた、入母屋造り檜皮葺の書院造りの建物で、国の重要文化財に指定されています。
 
        
  五大堂
 
天明年間(1781~1789)に建てられた大覚寺の本堂で、当初は寺の伽藍の中央にあったものを、大正時代に境内の東側に移築しており、東側にあるぬれ縁から大沢池を見ることができます。
 
        
  勅封心経殿
 
大正14(1925)年に奈良法隆寺の夢殿を模して建立されたもので、嵯峨天皇をはじめ、後光厳、後花園、後奈良、正親町、光格天皇の般若心経が勅封されて奉安されています。
 
        
  霊明殿
 
昭和11(1936)年2月26日に発生した二・二六事件で凶弾に倒れた第30代総理大臣斎藤実が、東京中野区沼袋に昭和3(1928)年に自費で建立した日仏寺の本堂を、東京日野市にある百草園を経て、昭和33(1958)年に当時の門跡であった草薙全宜がここに移築したものす。
 
     
  大沢池
 
境内の東に位置するこの池は、周囲が約1km.あり、中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇の命によって築庭されたと伝えられる日本最古の庭池で、「庭湖」とも呼ばれていて、国の名勝に指定されています。
 
     
  心経宝塔
 
嵯峨天皇の心経写経1150年を記念して、昭和42(1967)年に建立されたものです。
右の写真は、放生池越しに撮影した心経宝塔です。
 
 
    
  嵐電の踏切を超えて竹林の道を行きます。
左の写真は踏切内に入って撮ったものではありません。踏切から手を伸ばして撮ったものです。
竹林の道は何時通っても観光客が多く、道を入れて撮ろうとすると人の顔ばかり写ってしまいます。やむを得ずレンズを上に向けて撮影です。
 
 
     




土佐四天王像

 
落柿舎そばにあるミュージアムの前にある像で、左から、吉村寅太郎(吉村虎太郎)、武市瑞山(武市半平太)、坂本龍馬、中岡慎太郎です。
何でここにあるのか調べてみると、もともとは木屋町にある土佐藩邸の傍に設置されていたものが、ビルの取り壊しで行き場を失い、坂本龍馬と中岡慎太郎がこの近くにあった長州藩の本陣に立ち寄ったこともあり、結果ここに落ち着いたとのこと。
   
     
落柿舎(らくししゃ)
 
芭蕉の弟子であった向井去来が、貞享2~3年(1685~1686)頃に当時の豪商が建てた庵を別荘として入手し使用していたもので、名の由来は、庵の周囲に40本ほどあったといわれる柿の木の実が、嵐によって一夜にして落ちたことからといわれています。
現在の庵は弘源寺があった場所に、去来の親族である井上重厚により明和7(1770)年に再建されたものです。
庵では月例の句会が現在も開かれているようで、庭内にはいくつもの句碑があります。
訪れたときは庭内にある柿の木にはわずかですが柿の実が残っていました。もう少し柿の木があるといいんですけど…


(所在地:右京区嵯峨小倉山緋明神町20)
   
 
     
   
     




小倉大納言
(小豆)の復元畑
 
落柿舎前にある畑では、大同4(809)年に空海が中国から持ち帰った小豆の種を栽培して、御所から下賜された砂糖を加えて餡をつくり、御所に献上したのが小倉餡の始まりとされていますが、現在では小豆の栽培も衰退しており、この畑は小豆の栽培を復元するための実験農場として作業が進められています。
   
     




祇王寺

 

正式なお寺の名前は高松山往生院祇王寺という尼寺で、浄土宗の僧の良鎮が創建した往生院の境内にありました。寺は『平家物語』で、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と仏御前が出家ため入寺したことで知られていますが、往生院はその後衰退し、明治の初期に一時廃寺となりましたが、大覚寺の支援を受けて真言宗に改宗し、復興を遂げて今に至っています。


(所在地:右京区嵯峨鳥居本小坂32)
   
        

苔庭
 
草庵
 
        




化野念仏寺
(あだしのねんぶつじ)
 
弘仁2(811)年に、空海が野ざらしになっていた遺骸を、五智山如来寺を建立して埋葬したのがはじまりとされ、後に法然が念仏道場を開いて念仏寺としたと伝承されています。
境内には、約8000体もあるといわれる石仏、石塔がありますが、これは明治36(1903)年ごろに化野に散在していた無縁仏を掘出して集めたものだそうです。
 
(所在地:右京区嵯峨鳥居本小坂32)
   
        

延命地蔵尊
 
水子地蔵
 
     
   
西院の河原には約8000体あるといわれる石仏と石塔があります。  
     
   
     
  竹林の道の坂を上って行くと霊園があり、そこには守護神としての六面六体地蔵があります。
六面六体地蔵は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道の六つの世界を表すお地蔵様で、天道から時計回りに「オン・カカカ・ ビサンマエイ・ソワカ」というタントラを唱えながら、地蔵様に水をかけ罪を洗い流してもらいます。
 
 
     
 
 
     
     
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